会議が踊る理由とは

根拠が不明な議論というものは,むなしい言葉のやり取りにすぎないから,当事者以外には聞く価値がない.
しかし,世の中にはそんな「議論」があふれているので,小中学校でクラス討論のやり方を教えることは,将来,かなり役に立つ.

たまたま,人気投票のような小学校児童会では,委員をやったし,なによりも中学校の生徒会で,書記と会長をやらされた.
中学では選挙に出なければならないが,本人の意志とは関係なく,勝手に出馬の手続きがとられ,あんなに恥ずかしいことはなかった,立ち会い演説までやるはめになった.

もしかしたら,これは集団的なイジメではないかと疑ったことがあるが,全校生徒の半数が自分の名前を書いた結果に,一種の驚愕をおぼえた.
わたしは,すでにはじまっていた横浜市中心部のドーナッツ化現象による生徒数の減少で,学区がべつの小学校に通っていたから,中学の学区として中心的な小学校の出身ではないために,ほとんどの生徒をしらなかったからである.

文化祭や体育祭でなにをやるのか?にはじまって,校内の衛生や図書室の運営,球技大会と,これに活動報を月刊でだすなど,あんがい忙しく,バスケットボール部の練習にほとんど出られなくなってしまった.

卒業後20年以上たって,当時の部活の顧問の先生と同窓会でご一緒したら,生徒会顧問から青木を預かりたいという話があって,承知したことがあると打ち明けてくれた.
つまり,先生たちのあいだでわたしは取引されていたのだということがはじめてわかった.
それが,選挙結果になったのだった.

ところで,おとなの会議といえば,社内や取引先とおこなうビジネス上の会議と,町内会や自治会など,地域での会議とがある.
子どもは,ある意味立場をかんがえないで,「同等」を前提とするから,生徒会が関係する校内会議は,好きなような発言にあふれていて,これをまとめるのに強権的なことは一切できない.

そういう意味で,生徒会はちゃんとした原案がないと,泥沼の議論になるということを,痛いほど味わった時期でもあり,経験だった.
よくかんがえると,このときの経験がいまも活きているから,とてつもなく恥ずかしい思いをしたことも,いまではよき想い出である.

人間は自分を中心に発想するから,わたしも学校でたいへんな思いをさせられた会議の進行について,おおくの人が同様の知識や経験があるものと思い込んでいたが,だんだんそうではないことがわかった.
仕切る側と仕切られる側という,二極に分かれていくのだ.

仕切る側をよく経験したひとは,仕切られることにもあまり抵抗はないのではないか?自分でもこうするだろうと思えば,反発する理由がない.
しかし,仕切られる側にばかりいるひとは,その辺の呼吸がわからないから,意外な発言をしたりする.

また,議論は論理展開である,という基本をおさえていないでおとなになったひとがおおい.
だから,意外な発言のなかに,突飛なものも混じって,驚いてしまうことがある.

これが社内会議で部下の発言なら制止がきくが,上司だと厄介だ.
そして、困り果てるのが,ご町内での会議である.
ほとんど子どもと同じレベルの発想をするおとなが,自己主張することがあっても,制止がきかないし,円満解決を最優先させるために,長い時間も要するから,つき合っている方には時間の浪費を強要される.

日本の社内会議が決まらない会議ばかりで生産性がないといわれるのは,町内会レベルよりはましだ,ということなのだが,そもそも提案自体がこなれていないこともある.
これに,参会者の論理展開についての訓練が希薄だから,議論が宙に浮いて,ことばが踊る会議に陥ってしまうのだ.

この訓練は,人生において波状的に何回もあるのがよい.
学校生活における訓練は,初期段階だから,なるべく仕切る側と仕切られる側にさせず,全員に最低一度は仕切る側を経験させて,両者の立場を解説した授業がほしい.
小学校から高等教育の場で,繰り返されることで,身につけさせることがその後の人生の基礎になるのは,教科だけではない,このような学習が鍵となる.

そして,社会にはいれば,やはりそこでの訓練も受けるようにすると,自然に論理的な発想ができるようになる.
企業にとって,従業員が論理的であることで困ることはない.

だからその成果として,町内会や自治会の運営も合理的になるだろう.
リタイアしたひとたちの亀の甲より年の功の見せ場にもなるはずだ.

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