停電の回復を役所が発表する

被災者の皆さまには心からお見舞い申し上げます。

わが家でも、久しぶりの「大きな揺れ」であった。
横浜のわが家は停電はしなかったけれど、千葉県と神奈川県でそれなりの停電があったのはなぜだろう?

さらに、震源地とその周辺の停電も、復旧について経産省が発表する「怪奇」がある。
「電力自由化」が詭弁であることをいまさらいう必要もないけど、役所が情報をとりまとめる「サービス」にだれも疑問がないことが「怪奇」なのだ。

緊急時なのだから情報が一本化されるのは正しい、というひともいるだろうけど、それが、「政府依存」であり「全体主義への脇の甘さ」をつくる。
ならば、どうして「電気事業連合会」のとりまとめではなくて、経産省なのか?

情報を一本化しているのが経産省なのではなくて、電力会社のオーナーを「気取っている」のが経産省なのである。
株式を保有している意味の「オーナー」ではなくて、訳もなく会社を「支配」している、これしかない。

電力会社は民間企業を偽装した、実質国営企業なのだ。

この構造は、国鉄と運輸省(当時)の関係に似ている。
国鉄もはじめは「鉄道省」という役所の運営事業だったから、採用における身分差があった。
いわゆる「キャリア」だ。

それで、赤字が膨らんでどうにもならなくなっていた時期に、「キャリア」入社の若者にどうして入社したのかを質問するマスコミ報道があった。
でも、彼らは入社してすぐに、運輸省の命令で動いていることに気がついて、運輸省にはいった同級生たちから一生下に見られることが理解できたろう。

そうなれば、「お山の大将」になるしかないから、「社内」で下の身分で入ったひとたちを見下さないと、精神の安定が保てない。
これが、「国鉄労働争議」の遠因ではないかと疑うのである。
おそろしく大きな組織なのに、組織を動かす手法が、「役所」なのだ。

たぶん、「JR」になっても、根本は変わらないとおもわれる。
なぜなら、元からあるDNAがそうだし、民営化したからといって組織論を根底から見直した話を聞かないからで、その意味ではあたらしいDNAを取りこんだ気配がない。

しかしながら、以上は過去か現在のはなしである。
おそるべきは、日本政府:内閣府が掲げる「ムーンショット計画」だ。
まさに、『1984年』の姿を政府が目指すと、臆面もなく堂々と発表されている。

目指す社会(内閣府のHPにある)
・人の能力拡張により、若者から高齢者までを含む様々な年齢や背景、価値観を持つ人々が多様なライフスタイルを追求できる社会を実現する。

・サイバネティック・アバターの活用によってネットワークを介した国際的なコラボレーションを可能にするためのプラットフォームを開発し、様々な企業、組織及び個人が参加した新しいビジネスを実現する。

・空間と時間の制約を超えて、企業と労働者をつなぐ新しい産業を創出する。

・プラットフォームで収集された生活データに基づく新しい知識集約型産業やそれをベースとした新興企業を創出する。

・人の能力拡張技術とAIロボット技術の調和の取れた活用により、通信遅延等にも対応できる様々なサービス(宇宙空間での作業)が創出される。

狂気すら感じるのだ。

これらすべてを、「政府」が用意するという発想は、完全に全体主義である。
電力会社による「停電の回復」を、政府がとりまとめる、ということの延長が「これ」だ。

目標時期は、2050年までに、とある。

すなわち、猛烈な金額「研究開発費」と、スピード「研究開発構想」で、国民にはみえない場所で、ブルドーザーのような強引さを持って推進している、のである。

ほんとうの恐るべきは、上記5点を読んで、なにも感じないか、なんだか「よさげな未来」を感じるひとたちの、「読解力の欠如」なのである。

そのために、読解力のない国民をつくる必要がある。

これが、いわゆる「教育問題」なのであって、「問題」はずっと前からあるけれど、いっこうに「解く」ひとがいない、理由だ。
そして、この問題を解く「べき」が、あろうことか文部科学省だと信じて疑わない国民がいることだ。

つまり、泥棒に店番をさせるようなものなのだ。
文科省が指示を出したと官房長官が発言した、「入試にあたって大学は受験生に地震で不利にならぬよう配慮せよ」とは、各大学当局を幼稚園生以下に扱った、自分だけがよい子のアリバイ作りにすぎない。

このような妄想に取り憑かれた日本政府のかんがえ方が、間違っている根本に、「分散」という発想がないことにある。
すべてが、「集中」の思考なのだ。

分散とは、人間ひとりひとりをアトム化するのではなく、ひとりひとりの尊重をすることだ。
それは、個々の自由な発想の集合体が社会をつくる、という自由主義思想の基本中の基本なのだ。

だから、たまに突拍子もないひとが現出してもかまわない。
「仲間はずれ」にするのではなく、取りこむべきなら自然に取りこまれる。
この「自生」のかんがえ方が、人類社会を発展させてきたのである。

この正反対が、「集中」だ。
上記の「美辞麗句」の一句一句をよく読めば、そこには「自生」などなく、個人の自由もない、「完全管理」を理想としている。
「AI」に欺されてはいけないのは、そのプログラムを誰が書くのか?にあるからだ。

映画シリーズ、『マトリックス』が娯楽ではない、哲学的で真剣な警告となっている。
シリーズ最新作の「4」は、今年のクリスマスに公開が予定されているから、日本では来年の春休み映画になるのか。

地球上でもっとも完璧な「共産化」を、冗談抜きで、日本政府が目指すと宣言している。

おそろしいことである。

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