再発防止につとめる

アラブ世界で暮らすと,以下の「I」「B」「M」が日常になってしまう.もちろん,まじめな日本人には最初は馴染めないから,下手をすると不適応症を発症して,精神的に危険な状態になるひともいる.しかし,おおくは「郷に入れば郷にしたがえ」ですっかり適応してしまうから,似非アラブ人になってしまうものだ.

「I」:インシャラー,神の思し召し.「ドンマイ」のように軽く使われると,ムッとくるから,日本人はあんがいイスラム教に親和性があるかもしれない.
「B」:ボクラ,また明日.この一言で,これまで行列に並んだ時間がすべてムダになる破壊力がある.それで,翌日にまた並んでも同じことになりかねないから,けっして保証されないその場限りの言葉である.
「M」:マレーシュ,直訳は,そこに神がいなかった.まさに「ドンマイ」気にするな,である.

なにか自分によからぬことが,相手(アラブ人)が原因でおきると,上記のどれかが相手の口から発せられる.アラブ人同士だと,被害を被ったはずの側も,おなじように言って,気を静めるのがふつうだから,アラブの人はとくに好戦的な人たちではない.
しかし,この三つの言葉には,自分から謝罪する,という概念がないことに注意したい.

むしろ,これに慣れない日本人が,相手に殺意を抱くほど頭に来るのがふつうだから,いざとなると日本人のほうが好戦的かもしれない.
それでも,冒頭しめしたとおり,日本人でも適応すると,同様に言って気を静めることができるようになるし,さらに上級者ともなれば,アラブ人に向かって自分から言えるようになる.

「I」と「M」には,「アッラー」が短縮されて含まれている.「インシャラー」は「インシ『アッラー』」だし,「マレーシュ」は「マ『アッラー(フ)』シュ」である.
だから,かなりイスラム教の内部にふみこんだ言葉遣いなのだ.
これを,他宗教の人が口にしてもゆるすのだから,けっこう寛容なのだ.

ちなみに,アッラー(フ)の「フ」がカッコなのは,アッラーが男性名詞なので正規には「アッラーフ」というからである.

そういうわけだから,かれらには「反省」がない.
「アッラー」という「唯一絶対神」の存在を信じているのだから,自分のおこないも,アッラーによってコントロールされているし,被害を被ったはずの側も,被害を受けたこと自体がアッラーの御業として受け入れるからだ.

この発想法は,ユダヤ教も,キリスト教もおなじだ.
かれらの共通聖典,旧約聖書にハッキリ書いてあることだ.
その影響で,英語の感情をあらわす動詞のおおくが,「~させる」という他動詞で,「~させる」主体は「God」になって隠れている.

ヨーロッパ近代の発展は,そのキリスト教への疑問と否定が根底にある.それを明言したのがニーチェ「アンチクリスト」だ.
近代合理主義の追求とは,まさに「アンチクリスト」のことである.

ところで,世界でもっともキリスト教が普及されていない国は日本といわれている.
しかし,日本には法然と親鸞が発明したキリスト教である浄土宗と浄土真宗がある.
「他力本願」とは,じつは「旧約聖書」的発想だからだ.しかも,救世主「阿弥陀如来」までいらっしゃる.

徳川家康が本願寺を東西に分裂させて,いまだにそのままなのが不思議だが,「浄土真宗」とは幕府がつけたヨイショのネーミングで,それまでは「一向宗」だった.
あの,「一向一揆」の「一向宗」である.
つまり,ヨーロッパの本場からキリスト教が伝来する以前に,日本にはすでにキリスト教があって,その勢力は強大だった事実がある.

日本人は「無宗教」だという大嘘がはびこっているが,日本人は世界でもっとも宗教的な国民である.神道をベースに,あらゆる宗教を都合よく加工する.
世界三大宗教と真っ向からちがうのは,かれらは「絶対神ありき」なのに対して,われわれ日本人は,「神が人間のためにいる」ということなのだ.

キリスト教が「抜けた」近代合理主義を追求すると,「因果関係」つまり,「原因と結果の関係」を「科学する」ことになって,そこに妥協はない.
だから,スリーマイル島の事故も,妥協なく調査され,妥協なく今後のありかたを「マニュアル化」した.

わが国は,役所を中心に,いまでも「まつりごと」がおこなわれている.
「まつりごと」とは,宗教行事であるから,「因果関係」には人間のためにはたらく神がいる.
その「神」自体の存在は,信じるしかないが,そこに「役人の無謬性(けっして間違えない)」という宗教感覚がはたらく.

それで,福島でとんでもないヘマをしでかしたが,妥協なく因果関係を調べる「素振り」をすればよく,「原発の安全は確認された」ということが言えるようになる.

アラブがアラブなのは,イスラム教が「抜けない」からである.
アラブとおなじように「反省」ができない日本は,アラブとは真逆の人間に従属する神を信じるからである.
日本が日本なのは,アラブとおなじく「宗教」が抜けないからという共通点があった.
なるほど,アラブと親和性があるはずである.

妥協なく合理的に「反省」できないから,もちろん「再発防止」は「つとめる」もので,確実に二度と起こさない,という意思もなければ気概もない.

「再発防止」とは「科学」である.

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