化学の学習

発見的教授法について前に書いた。
中学校でも高校でもいいのだが、学校が休みになった原因は、コロナウィルスというものなのだから、これを「授業」にとりいれることが望まれる。

けれども、肝心の文部科学省という役所と、そこの役人のロボットにすぎない大臣の興味は、授業の質的向上でもなんでもなく、ただじぶんたちの責任を逃れる方法をかんがえることに終始している滑稽がある。

今回のウィルスの特性はなにか?
ならば、どんな方法がもっとも有効な予防法になるのか?
すると、ひとが集まる場所が危険な理由とはなにか?
それも「空気感染」するのか?

咳やクシャミからの飛沫が感染の理由なら、咳やクシャミをするひとが、自分で行動を注意しないといけない。
けれども、潜伏期間があって、本人だって感染しているのかわからないことが問題だ。

ならば、咳やクシャミをしないのに感染状態にあるひとから、どうやって他人が感染するのか?
感染者が触ったところにウィルスが付着して、これを触った自分の手で、自分の目や口を触ることで感染するのだ。

すると、もっとも危険な場所はトイレのドアとか、エレベーターのボタンとかエスカレーターの手すりにつかまることになる。
電車の中で、手洗いを奨励する放送をしているけれど、駅のエスカレーターでは、手すりにつかまるように放送しているし、車内のつり革や手すりにつかまるのは、当たり前のことだ。

つまり、一貫性のない案内がたれ流されていて、たんなる「雑音」と化しているのが、わが国における「公共」の実態なのである。
言うだけいって、やることはなにもしない。
この無責任こそ、感染がすすむ理由なのだ。

そして、残念ながらちゃんとしたおとながいない社会になったから、ほんとうは子どもの方が冷静なのである。
長い春休みを謳歌している。

なんのために学校を休みにしたのか?
感染しても重症化しない、子どもや若者の移動を抑制するためだったのではないか?
そして、それによって発症すれば重症化する高齢者に対しての感染を防ぐためだったのではないか?

けれども、ただ「休校」にしたものだから、子どもたちは外で遊び回り、これをとがめる親もいない。
それで、学校を再開すると、かってに役人がきめてこれをロボットにすぎない大臣がふたたび唐突に発表するのである。

いっぽうで、東京都知事が発言したように、場合によっては「都を閉鎖する」というのは、いったいどうやっておこなうのか?を横にしても、すくなくても、文部科学省のいう学校の再開と意味がぜんぜん通じない。

これぞ、バラバラを絵に描いたようなおはなしで、一体全体どうなっているのか?
と、中学生や高校生ならかんがえるはずである。

つまるところ、子どもからバカにされる社会というものが生まれたのである。
とくに、テレビに出てくるようなおとなたちは、たちが悪い、と。

そんなわけで、教育の大チャンスがここにある。
化学の教師は、自分が学校でまなんだ専門知識をここ一番に発揮して、最低でも実験室で、家庭でもつくれる消毒液をつくるくらいのことをやってほしい。

化学式でも反応を書いて説明すれば、ちゃんとした授業になるのだ。
化学が世の中の役に立つということを、これほどわかりやすく理解させる方法もない。
ついでに、いまの政府がやっている方策が、どのくらい化学から乖離しているかをしめすことが重要なのだ。

そういう意味で、反政府的な授業になるけど、どうしてこれを反政府的な教師たちの労働組合がいわないのか?
それに、「食育」とかいっているひとたちも、感染予防にひつような「免疫力」を高める食事をいわない。

あんまり、消毒やら清潔さに依存すると、こんどは「潔癖症」という病理がとびだして、「免疫力を失う」ということにもなりかねない。

二十年ほどまえ、バリ島でコレラが流行ったことがあったが、感染するのは日本人だけだった。
おなじ環境にいる現地人ばかりか、旅行でやってくるオーストラリア人も、だれひとり罹患しなかった。

すでに、日本人は世界で最高水準の衛生環境に暮らしていたから、とうとう「免疫力が退化」してしまっていたのである。
これはこれで重大な問題だ。
つまり、「弱い」ということだ。

20世紀は「科学万能」が叫ばれた時代であったけれども、その行き過ぎが反省もされた時代であった。
それで、「自然派」という価値観が高まったけれど、原始人には戻れないなかでの「自然派」だから、科学との共存という意味になる。

しかし、その科学の分野にある化学をないがしろしては、生き延びられないことも事実なのだ。
そして、今回いよいよわかったのが、医学は科学ではない、ということだった。

「防疫」という分野は、とっくに「軍事」レベルになっていた。
つまり、「国の防衛」としての概念がなければならない。
欧米の指導者たちが「戦争」というのは、けっして「比喩」ではないのだ。

こんなことも、中学生や高校生が気がついている。

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