去年のGWの話題を振り返った

歴史の「変わり目」にあたって、ひとはそれに「なかなか気づかない」といわれてきた。

「大災害」があればわかりやすいけれど、それは、「被災者」に限定されてしまう傾向がある。
「当事者」でないと「なかなか気づかない」ものなのだ。

今回の「新型コロナウイルス禍」は、おそらく「感染症」としては、小規模な被害でおわる可能性が高い。
なにしろ、毎年のインフルエンザに比較すれば、罹患者数も死亡者数も10000分の1程度であるからだ。

すると、明らかに「人為による被害」の方が、よほど深刻な悪影響を作りだしているということだ。
しかも、自然災害よりひどい「全国一律」だから、全国民が「被災者」になってしまった。

過去の歴史で、「人為による被害」として、悪影響の最たるものが「戦争」だった。
その理由はなんであれ、人間の「欲望」によっていた。
支配欲や征服欲、そこから派生する掠奪の「うまみ」もあったろう。

今回の「人為による被害」の発端はなんだろうか?
経済政策のちょんぼ(たとえば昨秋の消費増税)を誤魔化すため。
あるいは、自己顕示欲からの「指示出し」。
しかし、一般人には「生存欲」がもっとも強かった。

とにかく死にたくない長生きしたい。
たいした流行ではなくても、「治療法がない」ことが大問題なのだ。
この「生存欲」が、政府や為政者たちの「欲をあおって」、ますますこれをマスコミが利用した。

さまざまな「欲」のぶつかり合い、これこそが本質である。
ウィルスは、そのトリガーを引いたにすぎない。

かくも「生存欲」が優先する時代は、かつてあっただろうか?

われわれは、もう一度しっかり「歴史」を学ばないといけない。
そこに、生存欲よりも重要などんな「価値」があったのか?の確認である。
つまり、生きる意味であって、ひいては人生の意味である。

このまま、「ただ生きている」ことに価値があるとして、たとえ個人が突きつめなくても、そのベクトルに多数のエネルギーがくわわると、「一点追求」という方向と力がうまれる。

すると、映画『マトリックス』のリアル社会における人間たちが、ただカプセルに横たわって、このまま一生を終わるということが、むしろ「望ましいこと」になってしまうのだ。
それが、生体エネルギーを取りだす、「発電所」だったとしてもだ。

すなわち、「飼い殺しでもいい」、という価値観が、生存欲が最高の価値だとする発想と直結する。
「脳をだますプログラムでしかない」としっていても、「快楽」をもとめて仲間を裏切るシーンが用意されている周到さにも、ただ納得するのである。

はたして『マトリックス』はもはや「古い映画」になってしまったが、ここで紹介された「未来」とは、じつは「現在」のことではないのか?

ならばと、昨年のゴールデンウィークを取材した数々の映像を、たった1年後のいま、振り返ってながめれば、おそろしく「古い」と感じてしまう。
いつものGW同様に、だれもが連休をなんの不安もなしにたのしんでいる光景を、いま、どう評価できるのか?

鎌倉の海岸に、他県ナンバーの車がきても県営の駐車場を利用できないようにすると「決めた」県知事を止められない県議会。
これから派生して、「正義」の逆転がはじまったから、他県ナンバーの自動車を「あおる」地元民の運転手がでてくる。

いまどき、なんで他県からくるんだよ。けしからん。

ウィルスがどうやってひとに感染するのか?を「正しく」いわずに、それが、あたかも「空気感染」にまで拡大解釈されて、近くにいる他人を疑うように仕向けることが「正義」になったのである。

これぞ「アトム化」だ。
アトムとは、古代ギリシャの哲学者デモクリトスなどが提唱した「原子」のことで、これを後世の、ジャン・ジャック・ルソーが、「社会」に応用して、人びとがバラバラになって、物質的な「個」になることをいう。

彼は、地縁も血縁もなくなって、共同体もない社会を理想化したのだ。
「個」だけの人間で構成される社会である。
すると、そこに、あたらしい支配のための価値社会が誕生する。
それが、「唯物論」を基礎におく「共産主義社会」なのである。

わが国は、とっくに地縁も血縁も薄くなった。
江戸時代の各藩とて、幕府によって「国替え」がさかんにおこなわれ、大名の地縁を断つことに専念したのは、支配者層と被支配者の分断が、幕府に都合がよかったからである。

これに、「養子縁組」という方法で、「血縁」も重要視されないようにした。
紙に書いて、役所に届け出ることで、赤の他人が家族になれる。
血縁をつなぐ「結婚」と「養子」とは、決定的にことなるのだ。

そんなわけで、「共同体」としての「会社」が唯一のこった。
会社に愛着ができるのは、家庭の血縁が壊れたからである。
その家庭がある、地元共同体(町内会や自治会)活動に興味もないのは、とっくに地縁がないからだ。

「会社に行くな」というのは、ウィルス感染の「おそれ」に名を借りた「共同体破壊」の「人為」である。
これは、「リスク管理」ではなく、「アトム化」の推進なのである。

もう二度と、昨年までのゴールデンウィークのような光景がみられなくなる。

つぎに来るのは、誰かにいわれて、「行楽に行きましょう」という号令に従う「ひとの群れ」に変容するからなのである。

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