古文訳J-POPの魅力

昨日の、『有隣堂しか知らない世界』の続である。

アルバイト歴3年の才媛が登場し、J-POPの歌詞を古文訳して実際に「歌う」という企画だ。
伴奏も、有隣堂のスタッフがおこなうので、「カラオケ」ではない。
しかも、歌も「うまい」ときているのは、合唱部だからか?

さいきんの若者たちの音楽について、かなり「うとい」という自信があるから、ふだん「J-POP」といわれたら、しぜんと腰が引けるのだけれど、『TSUNAMI』(2000年)や『プレイバックPart2』(1978年)がでてきて、安心した。

しかしながら、あの山口百恵、『プレイバックPart2』が、43年前なのだと気がついたら、こないだ書いた「懐メロの時間差」をあらためて自分で実感した。

歌謡番組の名司会者が繰り返していた、「歌は世につれ世は歌につれ」とは、みごとな表現だったけれど、まさしくぜんぜんいまのJ-POPについていけていないのは、自分が「時代についていけていない」ことを示すのだ。

されども、自分なりに一応の言い分があって、歌詞の薄さと、巻き舌での歌い方の違和感が、美しい日本語になっていない、という「うらみ」があるからだ、ともいえる。
このことが、クラッシック好きをやめられない理由でもあるし、クラッシックが好きになった理由だ。

もちろん、クラッシックのなかでも、人類最初の「8ビート」の曲を作ったのは、大バッハだから、彼の曲はずいぶんと、ジャズやロックの演奏家に好んで編曲されている。
バロックなのに、妙にあうのは原曲の構造が、ジャズ的・ロック的だからだろう。

それでも衝撃だったのは、グレン・グルードのピアノ演奏であった。
『ゴルトベルク変奏曲』(1955年)を皮切りにしたけれど、わたしにとってはなによりも、『平均律クラヴィーア曲集』の全曲(1962年~71年)が、ヴァルヒャのそれとぜんぜんちがう曲に聞こえたのであった。

彼のモーツァルトの演奏に、モーツァルトの大家、リリー・クラウスが「もっと上手に弾けばいいのに」といった有名な逸話がある。
クラウスにして、テクニックを誇示しているように聞こえたのか、音階の破壊に聞こえたのか。

ゆえに、「古典」の「現代語訳」とは、その「解釈」をめぐって論争になるものだ。
しかし、「現代語」のものを、わざわざ「古典」に訳すという作業は珍しい。

例によって、MCのR.B.ブックローが、厳しいダメ出しをするかと思いきや、回を重ねるごとにその「深み」にはまっていく。
これを、視聴者も同時に体験するのである。

聞けば、高校三年生のときに、古文の勉強をしていて「暗記」して覚えるよりも、好きな楽曲の古文訳をして楽しみながら勉強することをした、という。
このセンスが、光るのである。

基本的に、J-POPといえども、「恋の歌」である。
だから、これらの歌詞の「恋心」が問題になる。
上述したように、わたしの個人的イメージでは、歌詞よりも歌い方の違和感が、歌詞を聞き取らなかったのだ、と気がついた。

聞き取れない、のではなくて、もっと手前にある、拒絶感が、聞き取らないで全部を「雑音(ノイズ)」としていたのだ。
これを、「ノイズ」とせずに、イヤホンやヘッドホンで、周辺環境から離れた、自己の世界で「聴ける」ことの方が、もっと違和感がある。

まさに、世代間ギャップである。

ところが、これを、「古語訳」する工程で、現代語の意味と作者の意図とをあわせて選択したという言葉には、美しさがある。
そして、この工程上にうかぶ、重要な要素が、訳者自身の「恋心」なのだ。

ブックローがおもわず、「いい恋をしてきたね」には、大きく同意する。
すると、彼女も素直すぎる反応をするのである。
紹介に、「ハイトーンボイス清少納言」というのは、伊達ではない。

さてそれで、『プレイバックPart2』である。
もちろん作詞は、阿木燿子。
言葉の「プロ」である。
この題材をどう料理するのか?は、阿木氏の恋心の分析でもある。

しかも、「まっ赤なポルシェ」とか、曲名にもある、「プレイバック」をどうするのか?

驚くべきは、『源氏物語』の世界観をそのまま適用するという技をくりだしたことだ。
葵の上と六条の御息所との、激烈なる正妻と妾のバトルを描いた「車争い」の場を再現させる。

阿木氏の感想を聞いてみたいのは、桑田氏ほか、訳出された原作者たちもおなじである。
ただし、こまったことに、オリジナルより、グッとくるのである。
しかも、格調高い。

就職先は、有隣堂ではなくて、希望どおり高校国語教師だという。
やっぱりこの番組は少々ゆがんでいる。
こうした人材を手放すことに執着しない。

とはいえ、短歌集『サラダ記念日』でブレークした現職高校教師の俵万智氏のごとく、『古文訳J-POP』を自ら歌い、訳出説明をする出版をすれば、世間が高校教師にしてはおかないかもしれない。
ついでに、古語辞典も売れるだろう。

ただし、現代語 ⇒ 古語、の辞典が欲しい。

これも、有隣堂の「多核化」の一環になること請け合いだ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください