西川一誠氏という、当時現職の福井県知事が「提唱」して、2006年から約2年の議論を経て、2008年にできたのが、「ふるさと納税」制度である。
内閣でいうと、第三次小泉純一郎、第一次安倍晋三、福田康夫という面々の時代だ。
よくある話だから目立たないけど、西川一誠氏は、元自治官僚だ。
「自治省」とは、よくもはばかりなく命名したものだと「感心」するのは、みごとな「ダブルスタンダード」の用語だからである。
本当は、「自治」をさせない、という意味だ。
都道府県や市町村といった、自治体を、国家の「下請け」にするための事務を取り扱う役所だからである。
いまよりはずっと「正直」だった、明治のひとは、「内務省」と名づけたのだった。
それでもって、「欺瞞に満ちた」自民党は、橋本龍太郎という自己中に、どうしてか「郵政省」と「自治省」を合併させて、「総務省」なる得体の知れない役所を作らせて、その「功績」が将来にわたって崇められるようになると、だれかがおだてたにちがいない。
巨大化して、はなから「複雑怪奇」だった役人の世界が、「魑魅魍魎」になったのは、組織で言えば「内閣府」という、もっと得体の知れない役所を作るのに、総務省を「当て馬にした」のではあるまいか?と疑う。
それはそうと、敗戦まであった「内務省」は、「キング・オブ・役所」といわれた存在であった。
戦後の、「大蔵省=財務省」とは、「格がちう」別次元の権力があった。
すなわち、「一番」が解体されて、「二番手」が、「一番」に昇格したようにもみえる。
しかし、GHQが破壊しなかったのは、「役人の人事」であったから、見た目とはちがって、内実はなんら変化しておらず、たとえば、「事務次官会議」の議長は、「自治事務次官経験者」の伝統から「総務事務次官経験者」で変わらない、「内閣官房副長官」となって、いまに至っている。
つまるところ、旧内務省からしか、事務方の「最高峰」、内閣官房副長官になれないのは、総務事務次官経験者というOBが、昇格してさらに、内閣府を牛耳っているといえるのである。
よって、わが国の国家公務員で、エリート中のエリートとは、ほんとうは「内務⇒自治⇒(自治系)総務官僚(元郵政ではない)」なのである。
すると、橋本龍太郎内閣の「省庁再編」における、隠された意図とは「内務省の復活」だったともいえる。
これを画策した官僚は誰だったのか?
ところで、GHQとは、わが国を二度と欧米列強(白人)に歯向かわせないための弱体化、を目的とした組織であったので、かれらが「やったこと」と「やらなかったこと」は、目的合理的に「イコール」の関係にある。
すなわち、内務省を「解体した」ことと、官僚体制に指一本も「触れなかった」ことは、イコールなのだ。
それで、官僚体制が(GHQが目論んだとおりに)とうとうわが国を破壊して、修復不可能地点を越えたのが「平成時代の後期」だったといえる。
だから、事実上の「内務省復活」とは、反GHQというベクトルではなくて、官僚体制による「日本破壊の加速化」を意味するのだ。
このことの「兵器」が、「ふるさと納税」なのである。
およそ、自由圏では、「移動の自由」が保障されている。
たとえば、国家並みの権限がある、アメリカの「州」であっても、合衆国憲法(連邦憲法)と、州憲法の二重制があって、州憲法は連邦憲法に従うことでの「平衡」が確保されている。
だから、ふつうの国なら、「国境を越える」ことと同義の「州境を越える」にも、パスポートを必要としない「国内」という自由が与えられている。
生活の上での「諸制度」が、州によってぜんぜんちがうし、「税制」もちがう「のに」だ。
それで、アメリカ製のシミュレーションゲーム『Sim City』では、政府に不満を持つ住民が増えると、人口が減る、という設計になっているので、プレイヤーたる「市長」は、人口と税収の確保のため、住民の不満足表示に敏感にならざるを得ない。
もしこれが、「対戦型」となったら、市長同士で、「善政競争」に応じなければならなくなる。
たとえば、「減税合戦」となったり、だ。
実際に、バイデン政権になってからのこの1年で、アメリカの「州間移動」が注目されて、一方的な住民の「脱出」がはじまった。
たとえば、オレゴン州から、隣接するアイダホ州やネバダ州へという流れができて、最近では、カリフォルニア州やニューヨーク州からの「脱出」で、テキサス州やフロリダ州への移入が「万人単位」で増加していることが確認されている。
さてそれで、「ふるさと納税」の危険は、自分の住まう自治体の税収を減らしてしまうのが、「返納品の損得」という、「変な善政競争」になったこと「だけ」ではない。
最重要なのは、「本来の善政競争」の余裕となる「原資」を、自分が住まう自治体から「奪う」ことなのである。
すると、この「税制」の本当の目的はなにか?を問えば、「全国平準化」という、田中角栄が主張した「日本列島改造論」の「税制版」であることがわかる。
つまり、全国どこも同じで特徴がないことを「至高」とする、社会主義そのものの実現だ。
「旧社会主義圏」だった、東欧を旅すれば、歴史的建造物以外の「同じ」を実感できる。
それが、「平等の実現」だという、価値観は、まったくの「機械論」なのである。
「ふるさと納税」が「ふるさとを破壊」する。
よくもこんなことを「自慢する」元知事がいて、それを「本」にもしたものだ。
「支離滅裂」を、読解しながら「読む」とよい。
ただし、随所にそれがある。
福井県人は、このようにして欺されたけど、それが「税制」となって、日本国民も「被害者」になったのである。