困った吉田茂の英語力

戦前の日本人の学力は、現代日本人とは比較できないほどに「優秀」だというのは、かなりの信憑性があって、一種、「神話化」している。

これは、当時の「学制(学校制度)」に起因しているともいわれている。
なお、上でいう「当時」を、1872年(明治5年)にまで引き戻せば、この年に公布された日本の近代学校制度に関する最初の法令を「学制」といった。

江戸幕府が滅亡した「経済的理由」に、金と銀の海外流出による「インフレ」があるのだけれど、なぜか維新の志士たちの倒幕努力が前面から全面にあって、あまり経済的側面の話はでてこない。

それに、どうして「日英同盟」になったかの、当時の世界大帝国たる英国側事情について、日本人は無視してきて、むしろ歓んで自慢のタネにするのである。
でもあんがいと、「腹黒い」のが英国側の事情なのに。

この大英帝国人の腹黒さに、動物的本能で気づいたのが辛亥革命前の「進士」だった、李宗吾だ。
彼が、閑にかこつけてはじめ中国古典のパロディを書いたものの、その笑いにある真実が笑い事ではなかったのである。

このことに、いまだ気づかず、「日英同盟」を評価する日本人が多数なのは、きっと現代中国人からバカにされる原因でもあるだろう。

幸か不幸かをいえば、とにかく「貧乏だった」のが、幕末から明治の日本人全体にいえたことで、有名な共産主義者にして京大教授、河上肇の『貧乏物語』は、1916年(大正5年)に新聞連載されて、翌年にまとめて出版されている。

なお、東大紛争で総長を辞任した、大河内一男も『貧乏物語』(1959年:昭和34年)を書いているから、京大と東大のそろい踏みともいえるし、日本はずっと貧乏だったともいえる。

国民が貧乏だったので、政府も貧乏だった。

それで、義務教育が小学校までだったとき、各地の篤志家が私財を投入して、地元に学校を建てて、教師まで招聘したのであった。
いまも「文化財」として残る、すばらしい学校建築は、その心根を示したものである。

そんな学校が普及した時代になってからの例が、夏目漱石の『坊ちゃん』である。

義務教育は小学校まででいい、とした2年前の発言がなぜかいまごろ話題になったのは麻生太郎自民党副総裁だ。
なかなかに、「味」のある発言で、賛否両論で盛り上がっているらしい。

「真意」はしらないけれど、「旧制」に戻すべき論として読めば、それなりの説得力もあるものだけど、戦後に「新制」になったのは何故か?ということも同時に議論したいものである。

しかして、麻生氏の母方の祖父がいわずとしれた吉田茂で、学制を「新制」にしたのが、第一次吉田内閣の「実績」になっている。
「旧制」の、「複線型教育」から「単線型教育」への転換は、アメリカ教育使節団報告書に基づくものであったことに注視したい。

要は、旧制では、さまざまな「コース」があって、小学校からの選択肢がいまよりもずっと「豊富」だった。
なお、尋常小学校の上には、義務教育ではないけれど、尋常高等小学校があった。

なので、むかしは、「小学校出」と「高等科出」という区別があったし、「高等小学校」と「高等学校」は完全に分けて表現した。
そもそも、「中学校」に進学すること自体が珍しかったのである。

ならば、小学校と高等科出は、バカなのか?ということではなくて、職人や商人になるなら、早い方がいい、という価値観と人生観があったのだ。
「複線型」はまた、ドイツのマイスター制度があるように、設計することもできる。

これを、選択肢の少ない「単線型」にしたのは、いまからしたら、占領目的の大方針「二度と日本を独立させない」と合致する。
豊富な人材育成を阻む、という、占領側からの都合がよい、将来にわたって永遠に日本の国力を削ぐ効果が期待できる。

なお、「高度成長期」の経営者たちは、全員が「複線型」の旧制による教育を受けたひとたちだったことに注意を要するのである。

そんなわけで、残念ながら、麻生太郎氏は、マンガしか読まないという読書体験しかないと公言しているので、祖父・吉田茂の実態をどこまでご存じなのかは不明である。

麻生氏とはまったく別のルートにある「証言」として、いまさらながら注目されるのは、マッカーサーに直属した「通訳部隊」の、日系二世、カン・タガミ氏の証言が発掘されている。

それによると、吉田茂の英語は、マッカーサーとの会話でまったく通じなかった、という。
初会見で、マッカーサーは、吉田が職業外交官で駐英大使も歴任したことで、通訳官の同席を要しないと判断したという。

しかし、2~3分後、すぐさま呼ばれて、「彼は何語を話しているのか?」といわれたという。

吉田の語学力が「まずい」ことは、外務省内でも有名だったとあるけれど、これが、「GHQにとって都合がよかった」ともいう。
なにしろ、二世のタガミ氏が、おもわず日本人の血が騒ぐほどの「ポチぶり」だったと記録したのだ。

そこまで卑屈にならなくともよいものを、という思いで「通訳」したというけれど、「俺様」体質のマッカーサーは、むしろこの態度をよろこんだという。

吉田のふんぞり返った態度は、まったくの「演技」だというから、当時の日本人も現代の日本人も、どれほど騙されたのか?
そうやって、マッカーサーと吉田のコンビが、日本を永遠の「属国」へ貶めたのである。

はたして、これから「独立」する方策は?をかんがえれば、アメリカの衰退が待ち遠しいけど、東アジア情勢は楽観を許さない。
なんとも、日本を封じ込める仕掛けの巨大なことか?

臥薪嘗胆は続く。

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