国威発揚の古さと胡散臭さ

「米ソ冷戦」時代は、いわゆる西側と東側の間に、ほとんど交流がなかった。
ひとの行き来だけでなく、ものの行き来も、情報の行き来もなかった。
「鉄のカーテン」によって分離されていたからである。

自由体制ゆえに、なかなかまとまらないようにみえる「西側の結束」に対して、「一枚岩」を強調していたのは「東側」で、それが西側への心理的な圧迫にもなっていたし、そうした圧迫をすることが目的でもあった。
情報がないから、西側は東側の強固な結束をおそれたのである。

一般人がこれらの国を観光旅行するには、ビザの取得だけでなく、およそ「自由行動」が許可されないので、先方政府指定の「団体ツアー」にならざるを得なかった。
すなわち、先方の一般市民との「隔離」をもって原則としていたのである。

ところが、30年前の「崩壊」によって、ぜんぜん「一枚岩」どころか、バラバラの国家群を、親方であるソ連が「ジャイアン」のように睨みをきかせて、むりやりまとめていたという「演出」あっての「一枚岩」だとわかった。

それでも、ソ連を仕切っていたひとたちは、知恵を働かせて、「国際分業」までも「計画経済」に取りこんだ。
ミサイルを製造する国、軍事でも産業用でもトラックを製造する国、自家用車を製造する国を指定して、これらの国との「水平貿易」をしていた。

ただし、決済にはルーブル紙幣ではなく、ソ連製の武器で支払ったから、事実上の「物々交換」である。

たとえば、農業国なのに、いきなりむりやり工業化への投資政策をして、これに大失敗したチャウシェスクのルーマニアは、借金返済に農産物で引き渡すことになったから、農民は自分がつくった作物をいっさい口にすることができなくなって、巨大な「一揆」に発展し、政権崩壊となった。

この意味で、新冷戦は「冷戦2.0」とかいうけれど、前のときとぜんぜんちがう。
西側のあらゆる生活に溶け込んだから、おいそれと「排除」できない。

こうした「やり方」は、うまいやり方である。
相手の懐に飛びこんで、ゆっくりと増殖し、寄生する。
取りこまれた方は、なにも気づかないままに、徐々に脳まで冒される。
脳を冒されれば、自覚症状もないから、最後は完璧な支配に成功する。

「トロイの木馬」の物語は、現代でも有効なのだと教えてくれる。
そう考えると、国民党を「乗っ取った」岩里政男(李登輝)氏は、北京の戦略を自ら実施していち早く成功した。
ただし、目的がぜんぜんちがうから、あちらは強烈に「敵視」している。

こんな方法を、どうやって習得するのか?
すなわち、究極的な「詐欺」や「偽装」だからである。
おそらく、近衛文麿内閣が手本になるし、戦後では田中角栄内閣が挙げられる。

30年前に生き残った、ソ連と仲間割れをした国は、わが国の「やり方」をしっかり学んだはずである。これを、わが国の学術のひとたちが「教授」したにちがいない。
基点にする思想が、どちらも「計画経済」なのであるから、ここに「二重らせん構造」もうまれた。

わが国の「計画経済」の成功例は、なんといっても「満州国の経営」である。
これを仕切ったのは、満州国次官の岸信介ら(昭和研究会)で、その綿密さは、ロシア人の荒っぽい仕事からではけっしてできない。

ここに、激烈な受験戦争と、それがつくりだす学術のヒエラルキー、さらには「官尊民卑」と結合した、「優秀な官僚」という「神話づくり」がどうしても必要になる。
東京大学の卒業生が、東大以外には目もくれないのは、そうした社会訓練の結果なのである。

そんなわけで、計画経済の本質は、国民生活のあらゆる部門で「計画」をはじめることにある。
すなわち、「漏れ」のある部門から、「計算不能(計画不能)」になるのだと信じているからである。

こんなときだけ、宗教家になったごとく「神は詳細に宿る」といいだすご都合がある。
そして、大真面目に、あらゆる生活に国家の計画が入りこむのである。

「計画経済」の基礎となる計算と計画が「成り立たない」ことは、とっくにミーゼスの研究がこれを証明している。
わが国の学術のひとたちは、ミーゼスのこの研究を「無かったことにする」し、さらには「満州での成功」も無かったことにする。

満州にまつわる話を「帝国主義」として、一刀両断し、議論させないのは、一定の成果をだすことができたという、「秘密」を厳守して、いまの世の中に密かに浸透させたいからであろう。

そのわかりやすい例が、「スポーツ庁」という役所である。
初代長官の鈴木大地氏から、このたびレジェンド室伏広治氏に代わった。
なんのための「役所」かをかんがえれば、スポーツを楽しむ国民を縛るためしかないことに注目したい。

室伏氏は、「頑張る」といったけど、どうか「頑張らないで」ほしいし、できれば「不要論」で頑張ってほしい。

「国威発揚」は、じつはオリンピック精神にも反している。
オリンピックは、国別対抗の形式をやめるべきだ。
「参加することに意義ある」とは、選手個人のことなのである。

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