国民負担率66.5%の悪政

財務省が2月26日に発表した、「国民負担率」の数字は、
令和元年度(実績):44.4%
令和2年度(実績見込み):46.1%
令和3年度(見通し):44.3% となっている。

これに加えて、財政赤字を加えた「負担率」は、
令和元年度(実績):49.7%
令和2年度(実績見込み):65.5%
令和3年度(見通し):56.5% だ。

計算式は、
(租税負担+社会保障負担)÷ 国民所得(個人や企業の所得)

租税負担にNHK受信料を加えたくなったり、社会保障負担に、「持続可能エネルギー移行負担金」とかも加えたくなる。

それに、財務省は、「実績見込み」と「見通し」という、ふたつの「推計」を毎年誤魔化して、おわってみた「実績」で比較するとたいがいは「実績見込み」を上回るという、「誤報」を常習としている。
だから、「実績見込み」や「見通し」は、もっと「高い」とみていい。

もちろん、「コロナ禍」という条件における、分母の国民所得がちいさくなったので、負担率が「異常に高い」ことになったのを、さすがに誤魔化すことができなくなったことは、理解できる。
ましてや、各種「バラマキ」によって、国は借金を増やした、といいたいのだろう。

すなわち、「65.5%」発表の意味とは、近々の「増税予告」ともとれるから、警戒がひつようである。
それが、令和3年度(見通し)という、「常習誤報の推計」にあらわれている。

「44.3%」と「56.5%」
前者の方は、消費増税が10月にあった令和元年度実績(44.4%)より、0.1ポイント「低くなる推計」で、後者は、コロナ禍の最悪(65.5%)より、急速に改善するようにみせている。

「分数」のつまづきが、その後の算数・数学のつまづきとなることは、とっくにわかっている。
「工業大学」という理系の「大学」で、入学初年度教育のなかに燦然と輝く「(強制)補講」をやって、めざましい成果をあげている講義こそ、「分数」なのだ。

文部科学省という役所は、こうした大学を「モデル校認定」という、「強制制度」をつくって、全国の理系大学に、「(強制)補講」をやらせて、そのご褒美に「補助金増額」をやっている。

どうして、もっと早い時期(小学校・中学校・あるいは高校)にやらないのか?
「行政命令」としての、魅力に乏しいからである。

直接的な影響力が行使できる、大学こそが「うまみ」のある現場だ。
そして、退職しても幹部大学職員として、天下りもできるのだ。

そんなわけで、「分数」は、人生のなかで、とても重要な要素なのは、自分の人生が行政に支配されるように仕向けられるということになる最初の関門なのだ。
すると、小学校・中学校・あるいは高校で分数の補講をしないのは、やっぱり「わざと」ではないかとうたがうのである。

財務省が「常習誤報」のなかで、負担率が下がるようにみえるのは、分母が「勝手に増大する」とみているからである。
あたりまえだが、かれらの計算に、分子を小さくするという概念は存在しない。

すると、わが国は、戦国大名の時代より「悲惨」な状態にある。
最盛期に、ほぼいまの関東地方を支配したのが、小田原に居城をおく北条家だった。

秀吉による北条征伐にあたっては、「小田原評定」の恥さらしとなって歴史に残してしまう。
けれど、北条家の治政は、「4公6民」といわれ、実は税率が低かったという評価がある。

この真偽については、所説ある。
なにせ、太平の徳川時代ではなく、まだ「戦国時代」なのだ。
もちろん、「太閤検地」をするどころか、太閤になるとはおもえないから秀吉と戦ったのだ。

なので、さまざまな計算方法があって、「所説ある」のだ。
そのなかに、「およそ4公6民もありうる」という説がある。
・兵を出す農家と出さない農家で課税に差
・租税10%統一
・徳政令
だから、けっこう「細かい」のだ。

それで、おおざっぱに「4公6民」とすれば、わが国はこれを越えた「5公5民」に近づいているし、財務省がいう「借金」もくわえると、なんと「6公4民」どころではない。

この「重負担」を感じられないひとがいなくなってきた。
それで、「減税」をうったえる「政党」もちらほらと出てくるようになっている。

どういうわけか、わが国の労働組合の大集団、「連合」(日本労働組合総連合会)は、公式に立憲民主党を支持すると表明している。
けれども、立憲民主党の支持率はおおよそ「3%以下」に低迷していて、労働者の総数との乖離がすさまじい。

つまり、労働組合の一部(それも幹部の一部)しか、支持していないのに、この政党が、あいかわらず「大きな政府」を追求していて、「7公3民」をもいとわないでいられる理由だとすれば、小田原北条家を嗤えないどころか、人心はもうここにない。

その意味で、小田原方最後の抵抗勢力にして、唯一豊臣方に屈しなかった、埼玉県行田市にあった「忍城」の攻防が味わい深いのだ。
それは、城主の「人柄だけ」だったものか?
当時の農民のしたたかさは、いまよりずっと戦闘的なのだ。

現代日本人は、この悪政にどこまで耐えるのか?

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