土瓶のお茶が飲みたい

改装されたJR桜木町駅には、鉄道発祥の「旧横浜駅」だったことにちなんで、構内に「むかしの横浜駅」の写真が展示されている。
料金選択ボタンがない初乗り「30円」と大書された切符の自動販売機は、わたしの世代でも記憶にあるところだ。

そんな展示のなか、小学生がふたり列車の窓から顔を出しているところのショットがパネルになっている。
髪型が「坊ちゃん刈り」で、笑っている表情の雰囲気はわたしの世代に似ているのだが、すこし上の先輩世代だとおもうのは、乗っている列車が電車ではない旧型の客車だからだ。

むかしの電車には冷房がなく、天井に360度回転する扇風機があった。
冷房車が普及したのは、40年ほどまえからだった。
夏の日、やってくる電車が冷房車だとうれしかった。

その10年まえには、まだ立ち売りの駅弁屋さんがホームにたくさんいたことを記憶している。
さいきん「べんとー、べんとー」という掛け声を聴いたのは、台湾の観光地「九分」の最寄り駅ホームだった。「弁當」と書いていた。

都市近郊中距離の花形は、「湘南電車」と呼んでいて、いまのように「東海道線」とはいわなかったし、学校では「東海道本線」といって「本」をきちんといれておぼえさせられた。
だから、たんに「東海道線」というのは、安易でしかないとかんじるのだ。

はたして、会社は「湘南電車」の呼称を復活させる気もないのだろうが、「湘南新宿ライン」とか「湘南ライナー」といってお茶をにごしている。

これは、「東京行き」がめずらしくなったからで、「東海道線」すら、いまは東京駅をこえて遠い先まで行くようになったのは、便利だけれどなんだかなぁなのである。
それは、私鉄も同様で、いまも工事中の渋谷駅は、かえって不便になった感がある。

新幹線はさいしょから窓があかない設計なので、「駅弁が買えない」という不満を社内販売がカバーしたのは「ニュース」にもなった。
むかしは、駅の売店でもなく、すわった座席から窓をあけてホームの駅弁屋さんから窓越しに購入するのがあたりまえで、発車して動きだしたときのスリルすらあった。

列車をけん引する電気機関車は、おどろくほどゆっくりと動きだしたし、電車だっていまのようにせっかちな加速をしないから、駅弁屋さんが小走りに商品とおつりをくれた。走るスピードよりも、手さばきのスピードがすごかった。

国鉄が大赤字だから『ディスカバー・ジャパン』というキャンペーンをしていて、とくだん理由がなくても鉄道に乗せようとたくらんだのは、『阿房列車』の影響か。
これにウィスキー会社のテレビCMで夜行列車の窓横にビンが置かれていた映像が記憶にあるのは、こんな旅をおとなになったらやりたいとおもっていたからである。

旅に情緒があったのだ。

いまだって旅には情緒があるというひとはいるだろうけど、むかしはいろいろと仕掛けもあった。
国鉄が「JR」になったら、駅舎がどこもかしこも「近代化」されて、旅先の駅舎を背景に記念写真を撮る気がうせたことは前にも書いた。

ガラスと鉄骨でできた近代建築がだいすきなJRとは、何者なのか?
さいきんは、採算のために「社内販売」まで縮小している。
旅の演出を放棄する鉄道会社とは、ひとの移動の価値をたんなる「運送」とかんがえているにちがいない。

それは、乗客が人間であることをわすれたということだから、まさに「唯物論」を地でおこなっているとんでもない企業体ではないか?

けっきょく、夜行列車をほとんど廃止して、とおい先に朝に着くことが鉄道ではできなくなった。
鉄道会社がバスや飛行機をつかえと本気でいっているのか?それとも鉄道会社を管轄する役所の意向なのか?

それはさておき、駅弁のお供はいつだって日本茶である。
車窓から買えた時代の末期、そのお茶の容器が土瓶からプラスチックにかわった。
けれども、これは一口飲めばわかる「プラスチックの味」がした。

「匂い」ではないのは、なかみが熱い湯にティーバックが一個入っているだけだから、熱で容器が溶け出したのだと感じたからだ。
だから、ものすごく「不味かった」。
いまのように、ペットボトルなんかないから、おとなはすまし顔で「お茶」として飲んでいた。

容器のデザインは土瓶とおなじで、急須型。
ふたがおちょこのようになっていて、これに注いで飲んだのは、ペットボトルに直接口をつけるより、よほど行儀がいい。
だから、行儀を重視する「良家」では、ペットボトルの飲料だってかならずコップに注いで飲むのである。

土瓶でなくなったのは、重量による販売員の負担をへらすため、という大義名分があったけど、けっきょくはいまでいう「コスト削減」だった。もちろん、お客には「使い捨ての利便性」が訴求されていた。

けれども、当時は飲み終わった土瓶の始末に、だれもがこまったというよりも、弁当の空箱といっしょにゴミ箱に捨てていたから、「使い捨ての利便性」はウソだとおもった。

いまなら「回収箱」でも用意すればよいはなしである。

東海道新幹線には、静岡と京都というお茶の名産地があるし、九州新幹線なら鹿児島がこれにあたる。

土瓶で味比べをすることが、移動中の楽しみになる可能性だってあるのだ。
むしろ、全国どこでも手に入るペットボトルのお茶との差別化は、もはや土瓶なら「区別」の域にはいるはずだ。

外国人観光客なら、記念に持ち帰りたくもなるだろう。

すなわち、持ち帰りたくなるような土瓶に価値があるようにみえるのだが、それは「おいしいお茶をのんでほしい」という愛情があって実現する。
乗客に対する愛情がなくなったから、プラスチックになったし、土瓶の復活をかんがえるひともいない。

ビジネスは「愛情だ」という感覚をうしなえば、ビジネスもうしなうのである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください