外国から批難される日本

「よい子」でいたいだけなのに、どうしてこんなに批難されるのか?

元日本人の岩里政男(李登輝)氏は生前、(自分と同じ)むかしの日本人には「公(おおやけ)」と「私(わたくし)」の区別がちゃんとあって、家の玄関から先にある世間のことは「公」を優先させるのが当たり前だと考えていたが、いま(戦後)の日本人は、「私」を優先させることに重きをおくようになった、と述懐していた。

だから、なりたい「よい子」とは、「公」からみての「よい子」ではなくて、「私」からの「よい子」になる。
その端的ないいまわしは、いまどきの子どもを諭すときの「他人に迷惑をかけなければ、なにをしても自由だ」に集約できる。

この言いかたの問題点は、最初の「仮定」にある。
「他人に迷惑をかけなければ」の、意味だ。
つまり、他人が迷惑とおもうかおもわないかを、他人からみた他人である自分が決めていることになる。

これを、「唯我独尊」だといって、なんだか「お釈迦様」と同格になるずうずうしさまでが「おまけ」になってまとわりついている。

個人の巨大な集合体が国家になるし、個人の「気分」が官庁や政治家に伝染するのは、官僚も政治家も「国民の一部」であるからで、むしろ、都合がよい「気分」なら、率先して採用することが、より「国民への奉仕」感を高める効果を発揮することを熟知している。

そんなわけで、一部のひとたちの都合に合わせた政策や施策が、なんだか「国益」のように一般人にもみえてくるのは、「よいこと」しかマスコミが宣伝しないからである。

本来の「IT化」とか「情報化」なら、既存マスコミに対抗するはずの「ネットの力」があったはずだけれども、肝心の「プラットフォーム提供会社」が、自分たちの都合を優先させる「検閲」実施の事態となって、だれもが予想した「未来の民主主義」が、一気に「全体主義」へと変貌しようとしている。

もちろん、わが国の「伝統」には、外国からの強制を伴う「大転換」がある。
「黒船来航」と、「占領時代」という二大転換が、すっかり民族の「トラウマ」になって定着している。

黒船は1853年のことで、占領時代とは1945年から52年までの7年間をいう。
すると、黒船来航から99年後にわが国は占領時代という「国家改造期間」を終えたことになる。

なので、1952年を起点にすれば、2051年が99年後ということになるから、あと30年(一世代)は、「よい子」でいる時代を続けようと努力することになるかもしれない。
ただし、その運命は「破綻」なのであるけれど。

こんな「体制」はおかしいのではないか?
「公」を重視する立場のとっくに小数派は、忸怩たる思いでいる。
それでも世は「私」を重視するひとたちの天下なのだ。

そこへもってきて、昨日(2日)、立て続けに二本のニュースが外国からやってきた。

先ずは「おフランス」(AFP)から、新疆ウイグル自治区における少数民族の強制労働で人権を侵害し「暴利を得ている」として、日本の「ユニクロ」現地法人、米スケッチャーズ、仏SMCP、スペインのインディテックス4社への検察による捜査が始まったという。

次は、アメリカ合衆国(ワシントン共同)からで、1日、国務省が発表した「人身売買報告書」に、わが国の「技能実習」が指摘されたとある。
つまり、「奴隷の疑い」を、あろうことか「奴隷制度」をめぐって内戦までやったアメリカから指摘されたのだ。

実際に、この「制度」で入国した「実習生たち」は、実習期間中に「脱走」して行方不明になっている者が多数いて、およそ年間7000人にのぼるという。
何年もやっているから、万人規模の「不法移民」が日本のどこかに住んでいる。

一部の実態を伝える「ルポ」もあるけど、(他に情報がないから)これをそのまま信じれば、本人たちのパスポートは、実習受け入れの日本人が「保管」することになっているので、たとえ「脱走」しても帰国どころか第三国の外国に移動することもできない。

パスポートという最高レベルの身分証明書を所持しないで、わが国で(潜伏)生活するとはどういう方法があるのだろうか?
犯罪組織の臭いがプンプンする。
政権交代によって、大問題化したアメリカ・メキシコ国境の「混乱」とおなじ状況がひそかにうまれている。

もちろん、「制度」をつくって「運用」しているのは、政府だ。
だから、アメリカ政府からの指摘は政府を直撃する。
一方で、おフランスの検察捜査は、民間企業に対するものだ。
「嫌疑の重さ」という点で、はるかに政府の方が重いけど、だからといって「民間だから軽い」というものでもない。

さらに、「ユニクロだけ」ということもなく、ネットにはさまざまな有名企業の名前がそのままに、「一覧表」で表示もしている。

日本だから「正義」なのだ、ということがいえなくなったのは、次元が高すぎる「文明国」から、改造によって低くて卑しい次元の文明国に落とされた「改造の成果」なのである。

だから、いまのわが国の「エリート」こそ、「卑しいひとたち」だと断定して差し支えない。
そのひとたちに、黙って従う一般人は、「ふつうに卑しい」といえる。

この二本のニュースが、爆発的な反応にならないのがその証拠なのである。
明治・大正期だったら、次元が高いために怒った国民による対象企業の「打ち壊し」が起きるはずと思われるからである。

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