学校の民営化

「憲法」をちゃんと教えないから,「憲法」がなぜ「最高法規」なのかをしる国民が極端にすくない.せいぜい,最上位の法律だから,程度だろうが,それではたんなる言い換えにすぎない.
これは,「民主主義をしらない」とイコールであるほどに深刻なことだ.

国会での議論も,「最高法規」ということだけが前提の,まことに薄ら寒い状況なのに,国民が絶望感を持たないのは,自分たちもしらないからである.
「憲法学者」はいったいなにをしてきたのか?犯罪的な説明不足である.
さいきんでは,政府にかみついた小林節慶大名誉教授が,さらりと発言していたから,これも注意していないと気がつかなかったろう.

民主主義国家における「憲法」とは,「国民から国家・政府への命令書」である.

民主主義だから,国民主権だから,ということの証拠が,「国家・政府への命令書」としての「憲法」だ.
だから,「憲法は最高法規」なのだ.
国会の議論が薄ら寒いのは,最高法規の憲法で,国民に命令しようという「倒錯」が議論されていて,野党の反論すらなっちゃいないからである.

日本人の不幸は,「憲法」を「国民が書いた」という認識が歴史的にもないことにある.
明治憲法もしかり.
これで「法治国家」だという「奇跡」がおきている.
「倫理観の高い」役人たちが仕切ってきてくれたお陰,ということになる.

おわかりだろうか?
「国民からの命令書」ということは,憲法を守らなければならない対象はだれか?「国家」や「政府」が対象だから,すべての公務員が憲法を守る必要がある.
すべての公務員には,当然,地方公務員もふくまれる.
ただし,業務をおえると,公務員も私人の生活にもどるから,業務中の公務員,が対象だ.

つまり,業務中の公務員以外のすべての国民は,命令した側になるから,憲法を守る必要はない.
だから,一般国民にたいして「あなたは憲法違反をしている」という指摘は,ナンセンスなのだ.
憲法違反の対象になるのは,国家・政府だから,それをうごかす公務員だけである.
公務員は,出勤したら「今日も憲法を守ります」と毎日朝礼で誓うべきである.

民間で,我が社には言論の自由がないから問題だ,というのはどうなのか?
これは,憲法違反ではなく,経営上の問題である.

それで,出てくるのは国民の三大義務(教育,勤労,納税)である.
本稿では,教育について書く.

「義務教育」の「義務」は,親やおとなたちに課している.
子どもには,教育をうける権利がある.
だから,子どもにむかって「学校へ行く『義務』がある」ということではない.
不登校の子どもは,ある意味「権利放棄」をしている.

公立の小中学校の校長たちは,「学校運営」のことをなぜか「学校経営」という.
民間企業の経営問題のひとつに,「プロ」経営者の不足がある.
社内昇格だけが原因ではなく,入社後から経営陣にくわわる前までに,「経営」をまなぶことがほとんどなく,「運営」ばかりしていることを指摘したい.

だから,組織の「運営」が,いつのまにか「経営」に転換されてしまい,経営者が経営できない,という深刻な事態を生んでいる.
かれらは「運営」しかしていないけれども,「運営」しかしらないから,「経営」ができない.
ところが,不祥事は「運営」のなかで生まれるから,じつは「運営」もできていない.これは,「現場との乖離」が原因で,社内でえらくなって貴族化した結果である.

公立学校の最大の問題点は,競争がない,ことに尽きる.
簡単にいえば,義務を背負った親に「選択の自由」がないことである.
アメリカでは80年代の教育改革で,教育クーポンが活用されたという.
中曽根康弘総理が,アメリカの教育をバカにして日本の教育を自慢した時代のことだ.

アルマーニの制服が話題になった東京の公立小学校は中央区にあって,本来の学区は,ほぼ「銀座」である.
この「区」は,「特認校制度」という学校選択制がある.
都心部で,住民が減って生徒数を埋めるための策だったようにおもう.しかし,この制度ができる前は,親が銀座に勤務していれば入れたというから,他地域からの入学はかつてより減ったという.

この事例は,やはり「立地」が先にたつが,「伝統」も重要な要素だ.
卒業生の名前がすごい.北村透谷や島崎藤村,近衛文麿などなど.
どうやったら「ブランド」ができるか?の教科書のようである.

「公立」なのに「アルマーニ」と騒がれた.
だったら,私立の学校法人に売却すれば,さらなる「ブランド」事例になるだろう.
地域の子どもには,教育クーポンの発行をして引き続き入学可能にすれば不利益はなくせる.

「あの学校に行きたい.」
選ばれる学校にどうやったらなれるか?
これが「経営課題」である.
公立学校制度でできないなら,民営化するとよい.

そもそも,全国一律なのは「富国強兵」のための「文部行政」だった.
つまり,兵隊にするための教育なのだ.
いまは,「文部行政」のための「学校運営」になっている.
そこには,顧客である「生徒のため」という視点がまったくもって欠如している.

「成績がわるいのは生徒自身がわるいのだ」という価値観が常識である.
「顧客重視」ならそうではなく,「わるいのは教え方ではないか?」とまずは疑うことが重要だ.
教え方がうまい塾講師に人気があるのは耳にするが,教え方がうまい公立学校の教師のはなしは寡聞にして聞いたことがない.

公立学校の教師は,クラブ活動で疲弊しているから,教え方の研究ができないという.
それでクラス運営もできないから,イジメを見抜けなかったり一緒にイジメる.
校長や教育委員会に相談しても,なかったことにされるから,登校拒否という選択に追い込められる.
つまり,公立学校は「クラブ活動」が中心なのだ.

兵隊にするための教育に,教師たちの労働組合は反対するだろう.
しかし,「顧客重視」の教育は,教師たちの実力が問われるから,これにも教師たちの労働組合は反対するだろう.

だったら,なにに賛成するのか?
おそらく,もっとも居心地のよい「現状維持」なのだろう.これは,大企業もおなじである.
それでは,生徒はたまらない.一方は塾に行き,一方は引きこもることになった.
生徒の「権利」を踏みにじっているのは,「義務」があるおとなたちだという構図になった.

学校を民営化したら,地方だから不利だということもない.
他地域からの「留学」を受け入れたっていい.
寮をつくらずも「ホームステイ」したっていい.
外国人の生徒を受け入れていて,なぜ日本人の生徒を受け入れないのか?

そもそも,全国一律のカリキュラムの強制がなくていい.
選択の自由をいかに確保するのか?
これは,わが国には重いテーマなのである.

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