宗教の復活はあるか?

とうとう「大恐慌」に匹敵する経済的打撃だと、IMFがいいだした。
「リーマン級」を口にしていた日本政府は、どちらが甚大か判別できる能力があるのか?とりあえず、全国に緊急事態だと発布はしたが。

世界銀行とIMFについては前にも書いた。
両者は「つるんでいる」ので、米と欧とでトップを独占分担しているのだが、出資金がでかいわが国からも「副」がつくタイトルで、もっぱら財務官僚の出世コースになっている。

IMFのトップである「専務理事」は、かならず欧州から選ばれるルールで、いまはブルガリア人だ。
このひとは、世界銀行からやってきた。物心がつくまで社会主義国だったので、世界銀行もIMFも、お里がしれる。

なので、「世界恐慌」をいうのは、「副」がついた日本人のお役人様と、さぞや財務省幹部が事前だか事後にやりとりをしていることだろう。
なにせ、まさかの事態出現で、このひとたちが「死守すべき」消費税が危うくなってきているからである。

自民党内でも、消費税を当面の間ゼロにする案を提案しているグループがでてきて、先月3月11日に西村康稔経済再生担当相に要望書を手渡している。
どうして「経済再生担当相」が相手なのかしらないが、財務大臣ではない理由をしりたい。

NHKが1997年1月から3月に放送した、『人間大学』は、「新しい科学の見方」というタイトルで、講師は村上陽一郎国際基督教大学教授(当時)だった。
テキストはアマゾンでいまも古書が手にはいる。

肩書きは重くても、「本物の学者」というひとは、あんがい少なくて、むしろ、学内とか学会とかの「政治が本業」のひとが学者を「名乗っている」ことがおおい。
この意味で、村上陽一郎氏は、数少ない「本物」であろう。

難しいことをやさしく解説してくれることができるのは、本物のあかしである。
教える側本人の実力がなければ、教えられる側が納得する説明はできない。

さて、この講義のなかで、「科学の誕生」というはなしがある。
ヨーロッパの歴史には、中東・アラビアの知見もふくまれているが、「魔術」から「科学」への変遷には、キリスト教との決別という事件が必須であった。

つまり、宗教による「真理」から、宗教を排除した「真理」の追求へ転じることが「近代」には必要だったのである。

そこで、「学問」とはなにか?という問題が起きる。
これを、三タイプにわけて説明されているが、便宜的に国名を用いるのは、説明を強化するための手法だとあらかじめ説明している。
・ドイツ型:学問のための学問
・イギリス型:紳士の教養
・フランス型:有用性

フランス型はフランス革命という、これまたキリスト教・教会人の処刑・排斥をともなう「支配者の排除」をやったことから、革命政府のメンバーは従来からの被支配者のみであった。
気がついたらそれでは、国家運営がままならない。

こうして、いまにつづく、「官僚養成校」がつくられたのは、科学の有用性を行政に利用したい側面が強かったからだ。
すると、わが国は「フランス型」だということが示唆されている。
列強からの侵略をふせぐ急速な近代化を促進するために、武士だけでは間に合わない事情が、フランス型にさせた背景であろう。

しかし、近代化=資本主義化のためには、ヨーロッパの歴史をさかのぼって、資本主義の「精神」を導入しなければならない。この精神がない状態を「武士の商法」だとお笑いぐさにして習っている。
そこで、明治の賢人たちが発明・開発したのが、「日本教」という天皇を「神」とする「宗教思想」であった。

もちろん、「日本教」は、GHQによって否定・棄教の対象になったから、わが国でいうほんらいの「保守」は、日本教の復活を目指すことになるはずで、結党当初の自民党がそれだった。
左からの「政教分離」というスローガンによる攻撃に、あえなく撃沈されたのが、この政党の能のなさである。

日本教も人為であったが、これをつぶした「天皇の人間宣言」も人為による「フランス革命」的な、処刑を伴わない「処刑」であった。

GHQは自分で棄教命令を出したのに、あんがい緩くなったのは、昭和天皇が偉大すぎたからでもある。
反日の権化のはずだった米軍の将官たちが、こぞって天皇に帰依したのは、「無私」という「普遍価値」を現世で実行している唯一の人間(家系)だったことに気がついたからである。

しかし、ゆっくりと確実に、かれらが撒いた日本教を破壊する「毒」が日本人にまわって、その重大さに気づくものが小数派になっている。
「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし(なぜ天皇は人間となってしまわれたのか)」と嘆いた三島由紀夫が、ことの本質に身もだえて抵抗した唯一の日本人だった。

そこに、新型コロナウイルス禍が襲ったのだ。
これはもはや、医学的でも物理的・科学的事象でもなく、社会的事象に転換された。
それは、「死」に対する宗教的哲学という免疫の「なさ」が主因である。

生まれたからには必ず死ぬ。

この厳正な事実に、世界中の人間社会が向き合えていないのだ。
それが、パニックを発生させ、差別をも生んでいる。

自分の人生を、取るに足らない人生だとおもえない。
「個」がなにより重要だというのは、ある意味ただしいが、ある意味まちがっている。
支配者だとおもっていても、しょせん「蟻の一匹」にすぎないのである。

自分の「個」が大事なら、他人の「個」も認めなければならない。
この「寛容さ」こそが、宗教的哲学への回帰をうながすのである。

21世紀のいまも、あいかわらず、「科学は哲学の配下にある」のだ。
科学も人間の営みであるからである。

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