尾崎士郎訳『平家物語』を聴く

何度もおなじ「きっけかけ」で、突如の「動画」についての話題を書いてきた。
今回も、どうしたことかがやっぱり「わからない」ままに、A.I.が紹介してくれた、『平家物語』の話題である。

わたしにとって、『平家物語』といえば、小学5年生のときに観ていた、NHK大河ドラマの『新・平家物語』で、清盛が仲代達矢、妻時子が中村玉緒、これに狂言回しの伴卜(ばんぼく)役が藤田まことだったことが記憶にある。

ただし、この作品「も」、「ホームドラマ」という位置づけなので、脚本は平岩弓枝だった。

それでかどうだか覚えていないけど、高校1年生の春から半年かかって、吉川英治の「原作」全16巻を読破した。
これがきっかけになって、ふつうの文庫本もあるのに、わざわざ高額な「吉川英治文庫」をせっせと読んで、本棚に並べて喜んでいた時期がある。

達成感が、いつでも見えたからである。

ついでに書けば、わたしが観ていた大河ドラマは、歴史的にありえない「価値観」の「現代的ホームドラマ」ばかりなことに呆れて、『おんな太閤記』を最後に、その後現在にいたるまで、まったく関心がない。

かえって大道具・小道具・衣装など、「時代考証」がしっかりしていることに、「うそ」の確信犯としての「だまし」が、映像イメージとして脳に焼き付けられる、「害毒」だとしか思えないのである。

さて、こんな「大作」なのに、「作者不明」ということも、また、「琵琶法師」なる盲目のひとたちが、どこでどうやって琵琶の演奏を「暗譜」して、物語自体の「暗誦」の訓練を受けたのか?詳しい説明はない。

ヨーロッパ的発想をすれば、「琵琶ギルド」があった、ということだろうけど。
ただ、楽器としてはペルシャ起源で、西にいって「リュート」になって、「ギター」になった。

「平曲」を道すがら聞き入るひとたちが、立ち止まって涙した、というから、聴いている側も「体力」がいる。
体力とは、身体のことだけでなく、日がな一日を生産活動なくして「費やす」という経済的意味もある。

じっさいの演奏を聴いたのは、高校の「日本史」の授業であった。
大きなラジカセから出てきた、「祇園精舎」は、テストに出るからと暗唱させられた文章の「スピード」とはぜんぜんちがう、そのあまりもゆったりとした語りに、戸惑うほどだった。

この調子だと、全部を聴き終わるのに、何時間どころか、何日を要するのか?
それは、目読だけでも「半年がかり」だった、『新・平家物語』からの、気の遠くなるようなイメージだったのである。

この「スピード感」の「遅さ」というのは、ドイツ音楽の伝統を体現する「最後の巨匠」と称された大指揮者、カール・ベームの評価にもある。
後進の「帝王」、カラヤンの現代的「サウンド」のテンポとはまるでちがう「遅さ」に、この巨匠の演奏を「嫌う」ひともいる。

おなじような経験は、アンデスの「フォルクローレ」にもいえて、『コンドルは飛んでゆく』のLPを買うのに、レコード屋さんでずいぶんと試聴して、もっとも「遅い」けど、「巨匠」という、アントニオ・パントーハのものを買った記憶がある。

選んだ理由は、素朴さ=リアルさ=遅さ、だったからで、いまも正しい選択だったと思うのは、もうあんな素朴な演奏をするひとがいなくて、聴けない(あらたな録音もない)からでもある。

人類はどちらさまも、いまよりもずっと「遅いテンポ」のなかで生きてきたことがわかるのである。
その生活のテンポが、歌のテンポと同調するのは「道理がある」というものだ。

だから、いまは滅多に聞かなくなった「民謡」が、むかしの生活のテンポを示すことになっている。

80年代、バブルの好景気に、民謡ブームもあったのは、日本が日本でなくなることの「お別れを惜しむ」ことだったろうし、それが、朝ドラの『おしん』大ヒットの原因だったかもしれない。

それから幾星霜、平成がおわって令和になったことの「時代区分」で、突如A.I.が示してきたのが、「盛者必衰」というメッセージなのである。

なんという「意味深」。

現代の「盛者」とは、いまだけ、おカネだけ、自分だけ、に象徴される「価値観」であって、それを代表するのが、「国際金融資本家」といわれる、小数のひとたちだ。

アイン・ランドが、「資本主義」とは、「未完」あるいは、「未来のシステム」と呼んでいたとは、前に書いた。
つまり、彼女の定義によれば、人類は資本主義をいまだ経験していない、と主張していた。

その愛弟子が、FRB議長をながくつとめた、アラン・グリーンスパンだったから、自由主義者はアイン・ランドを無視できないのである。
もちろん、グリーンスパン氏本人も、アイン・ランドへの「最大の敬意」を何度も示している。

すると、われわれ日本人も、「大間違いの洗脳」をされている。
「儲け主義=資本主義」ではないし、そもそも資本主義を経験したことはあるのか?という問いに、どうこたえるのか。

この山本七平の鋭い指摘は、「だから有色人種で初の、明治の産業勃興(資本主義)成功の理由」となっている。
けれども、わたしは江戸期の日本商人の「商業道徳」こそが、世界人類が初めて経験した「資本主義」ではないかと疑っている。

それが、「文明開化」で滅亡し、「和魂洋才」なる言葉でごまかした可能性がある。
つまり、江戸期の日本商人「だけ」が、アイン・ランドがいう「資本主義」を達成していたとかんがえるのである。

だから、「ポスト・資本主義」とは、じつは、「資本主義」のことをいう。
前者の資本主義は、「偽りの資本主義」なのだ。

すなわち、「国際金融資本家たち」とは、「正規」の資本主義者ではないし、まったく資本主義の精神とは関係のない、中世以前の、国家をも買収した「大富豪」にすぎない。

『平家物語』の根幹をなす、「祇園精舎」の思想が、現代でも、新しい時代を切り開くのである。
なにも「国内」には限らない。
「英語版」はもちろん、「ポーランド語訳」だってある。

これを教えてくれたから、ちょっとだけ、A.I.に感謝する。

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