政府は失敗するものだけど

世界帝国アメリカ・バイデン政権の「失策」が、世界を不幸にする。

「理念先行型」を嫌うひとは多い。
しかしながら、国家であれ企業であれ、はたまた町内会であれ、自分たちは何のために存在するのか?ということの共通思想を持たないと、組織としては必ず失敗するものだ。

この、存在を確認する共通思想こそが、「理念」なのである。
ところが、マルクスやエンゲルスの言う「共産主義」といったものは、その「理念」そのものが「間違っている」から、頑張れば頑張るほどに、どんどんおかしくなって、とうとう「粛正」という集団殺人が正義となるのである。

彼らが言う、「党の支配=一党独裁」とは、政府そのものを党がコントロール下に置く、という意味である。
すなわち、「超国家」としての「党」がある。
だから、国家が全能という思想ではなく、もっと「先」に行っている。

国家を超越して、革命の輸出を「義務」とするから、究極の「グローバリズム」が、(国際)共産主義運動となって、その活動組織を「共産主義インターナショナル=コミンテルン」と名づけていた。
こうして、国際金融資本と180度向こうを張って対抗したのだ。

よって、分度器のように「地平」で両者は「同じ」である。

この点で、共産主義への「移行期間」とされる、「社会主義」においては、党と政府の主従関係は未完成ゆえに「緩い」のである。
あるいは、政府側が「中立」を保っているように見せかけて、失政の責任を党にさせるということもやってみせるのだ。

ここで機能するのが、「記者クラブ」という「制度」で、情報が欲しい報道機関を政府がコントロールして、政党の責任を追及させるのだ。
そんな記事を、喜んで目にする国民は、選挙という「美人投票」をさせられて、「主権者」を気取っている。

わが国のこの「独特なやり方」が、あたかも「劇的な経済成長」の原因だという勘違いを誘発した。
それが典型が、戦後の「傾斜生産方式」における、通産省とその官僚の「優秀さ」という「幻想」であった。

この「幻想」を維持させて政府に媚びるために、わが国報道機関はいつまでも「幻想=ファンタジー」を国民の脳に注入し続けるのである。
そうやって、わが国民は日常においてもファンタジー空間で生活していて、これを不思議とも思わなくなった。

これを移植手術したのが、かつて日本であった「朝鮮半島」と「台湾」だった。
そして、改革開放の中国がこれらに続いた。

北は、日本の天皇を「曲解」して、いまだに世襲体制を維持している。
南は、大統領制にしたけれど、国会を「一院制」という欠陥にして、「政府優位」を即効で確立した。

わが国の「保守」にも、「一院制=参議院不要論」をいうものがいるけれど、なぜに「二院制」があるのかを考えたことがないようだ。
むしろ、参議院を「上院」として、衆議院(下院)との棲み分けにより、いまよりも強固にする必要があるのだ。

また、行政府ではない国会事務局は、両院における委員会から、本会議に至るまで、すべての「議決」における、すべての議員の投票行動を公開すべきだ。
どの法案に誰が賛成し反対したのか?を「事務的」に示せばよい。

そんなわけで、韓国は大統領の任期が1年を切ったなか、5月に政府主導の「半導体世界一戦略」を構築したけど、あえなく「失敗」が見えてきた。
こういう「真似っこ」をやるから、日本人にバカにされるのである。
もちろん、先行事例としての「大失敗」をわが国経産省はしでかしている。

その「失敗の構造」までそっくりだから、なんだか気の毒になる。
「学習」できないことの空しさというものだ。

第一に、技術さえあれば、という幻想に固執する。
アメリカ人が持っている特許も申請しない「コア技術」に勝てると考える、文系の哀しさが、アメリカ人の腹黒さに負けているのである。

第二に、販路はどこか?といったら、必然的に中国になる。
わが国から「世界の工場」が移転したという「幻想」もある。
最先端の半導体を中国に輸出できるとかんがえる方がおかしい。
コモディティ化したものしか輸出させていないのだ。

ただし、「窃盗」という問題が別にある。

第三に、上記を踏まえて、半導体と一口に言っても、「メモリー」か「CPU」かに大別される。
最も重要なCPUは、第一の理由があてはまってしまうのは、わが国だって同じだから、いまだに「メモリー」しか作らせてくれない。

それは、陰りが見えてきたとはいえ、相変わらず「インテル入ってる」に象徴される。
最近対抗してコスパで人気の「Ryzen」も、会社はAMD(Advanced Micro Devices, Inc.)で、やっぱりアメリカ企業なのだ。

このことの意味は、「政府が関与しない」ことに強みがあって、バイデン政権でさえも手をつけない、という事実だ。
政府主導の「開発独裁」が有効だったのは、いまよりずっと「単純」な世界だったからである。

昔よりずっと複雑になったいま、政府主導の開発独裁で優位に立つことはない。
改革開放の成功も、政府が手をひいたからである。
政治がこれにブレーキをかけるのは、「政治」だからだ。

しかしながら、新政権は、グローバリストの「宏池会」が仕切るのに、「新自由主義からの脱却」という意味不明をスローガンにしている。
ならば、このひとたちがいう「新自由主義」の定義を教えて欲しい。
「グローバリズム」という自分たちの発想こそが、わが国における「新自由主義批判」の根拠ではなかったか?

世界標準の「新自由主義」は、グローバリズム(=強欲資本主義・国際金融資本)を否定するのだ。
ここに、わが国やその周辺がいう、政治的「用語変換」がある。
あたかも、「進歩派=左翼」を「自由主義=リベラル」と変換するがごとくに。

このように、高度に発展してきた社会だから、政府が失敗し続ける理由が、見えてくるのである。

まさか、選挙対策内閣だった、なんてことか?

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