政権与党への期待値が

本日、4月28日は、わが国の重要な日。
69回目の「主権回復の日」(独立)であるけれど、これを「祝わない」不思議がある。

覚 和歌子作詞、木村弓作曲『いつも何度でも』は、あの『千と千尋の神隠し』のエンディングでしられる。

この曲のエピソードで有名なのは、宮崎駿監督の「幻の作品」となった主題歌だったけど、「次作」だった本作に採用されたというものだ。

「歌手」としてこの作品には、三人が印象に残る。
もちろん、「ゲルトナー・ライアー」(竪琴)を手に、蕩々とした歌声をオリジナルとした木村弓。
作詞家が自身で歌った、覚和歌子の意外にきれいな声。

そして、チェルノブイリで故郷を失い、自身も被ばくした、ナターシャ・グジーの透き通るような歌声にして訴求力のすごさ。
このひとは、リュートを巨大にしたようなウクライナの民族楽器「バンドゥーラ」奏者として来日し、日本人夫と暮らしている。

歌詞のわかりやすさという点で、この歌は難解である。
あたかも仏教的死生観、「輪廻転生」がイメージされているようだ。
はじめてこの歌を聴いたとき、『チベット死者の書』をおもいだした。

臨終からの47日間、チベットでは死者に向かって語りかける。
ふたたび人間として生まれ変わるための「指南」をするのだ。
まちがっても「畜生」になってはいけない、と。

じぶんたちの言葉でいうから、死者にも通じると信じる。
これが、「日本仏教」だと、漢字訳された「原典」を「お経」としてあげるので、どんなに本人が無教養でも、死んだらそのお経がぜんぶ理解できるとしていることに納得できない。

日本人の死者は、死の瞬間に森羅万象を突然理解するのか?

つまり、「お経」とは、日本では「呪文」なのだ。
それでよし、とする理由はなにか?
本人が「怨霊」にならない、させないための「お祓い」としてかんがえる。
ようは、化けて出てくるな、という生きている側の願いの儀式なのだ。

チベット仏教の「救い」は本人のためにあるけど、日本仏教は、この世の人間に「救い」がある。
これを、「現世利益」というのである。

おなじ仏教なのに、このちがい。
「仏教」と呼ぶことに、違和感すらある。
けれども、余計に日本オリジナル宗教の強烈さがわかるのだ。
古代からの八百万神への信仰を、一切曲げないことである。

政治のことを「まつりごと」といったのも、神々への「祀り」を原点にするからで、国内政治は現代でも「まつりごと」のままなのである。
外国の政治とちがう、のはここにすべての原因がある。
その外国は、とにかく「一神教」なのだ。

もうひとつ、日本人には信仰を曲げない理由に天皇の存在が欠かせない。
「天孫降臨」以来、万世一系だということの「当たり前」が、その価値の重要性を薄めているからである。
絶えることを想定しないし、絶えたらどうなるかもかんがえない。

むしろ、積極的に絶えるように仕組むのは、外国の「悪霊」に取り憑かれてしまったからだ。
「悪魔払い」をしないといけない状態になっている。

もうはるかむかしになったけど、松野頼三という政治家が、汚職でずいぶん責められていた。
それでも選挙で当選したら、「禊ぎ(みそぎ)は済んだ」と発言し、正々堂々と議員バッジをつけていた。

現代のまつりごとは、選挙という禊ぎを通過することで、本人の身も心も清浄になる。
だから、選挙で落とすということが、悪魔払いになるのである。
また、読者や視聴者をコケにするものどもには、不買という選択がこれにあたる。

そんなわけで、先週末にあった三つの補欠選挙では、与党が全敗した。

いまや、八百万神とは、有権者のことをいう。
では、忖度すべきは誰かといえば、立候補者の方なのだ。

一方で、コロナ禍対策について、国民の多数が「評価しない」という評価をしている。
八百万神が、評価しないということなのに、政治家も政府の役人も、「国民はバカだ」とおもっているのがばれた。

これが、期待値が「ゼロになるからだ」になってしまった理由だ。
あと何回かしらないけれど、選挙の禊ぎで、既存政治家と政府の安泰が危機にさらされていることは確実なのだ。
でも、永遠にこの体制が継続すると思い込んでいる。

おそるべきは、八百万神の「怒り」のベクトルが合致するときだ。
それで、政治家や政府は、「分断」をこころみて推進するはずだ。
そのための悪魔の甘言が、各種補助金のバラマキになる。

もらえるひとと、もらえないひと。
八百万神への「お賽銭」のことである。

はたして、八百万神は、お賽銭の多寡で行動をかえるのか?
それとも「悪魔の所業」と見ぬくのか?

政治への期待値ではなくて、政治からの期待値が問題なのである。

そんなわけで、既存政治家と政党の命脈が尽きようとしている。
あたらしい生命の息吹のように、あたらしい政治運動が起こるのは、もはや当然ともいえる。

体制変換は、日本でも間もなくだ。
これは、かつて「いつも何度でも」繰り返してきたことでもある。

生まれ変わりによる、再生。

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