教育委員のリコール選挙

なんでも選挙をすることが「いいこと」なのか、「悪いこと」なのか、あんがいと難しい問題である。

たとえば、身近な「行政」の、市町村でかんがえると、役所の「下請け機関」になっているのが、町内会や自治会である。
この組織の執行部をどうやって決めるのか?といえば、形式的には立候補制である。

しかし、たいがい「やり手」がいないので、むかしの「隣組」の流れからなる、10軒単位ほどの「班」から順繰りに「班長」になったひとたちが集まって、「役員」を形成することになっている。
それで、「くじ引き」をして役職を決めることもある。

ところが、「高齢化」で、10年に1回のはずの「班長」のなり手が、「若手」になって3~4年で順番がきている。
「80歳を超えたから、勘弁してくれ」といわれたら、「そうですね」になってしまって、50代からがしぶしぶなるのである。

一方で、「なりたがる」という現象もあって、特定の「政党支持者」だったり、「宗派」のひとだったりするのだ。
それで、町内会や自治会で「宣伝」や「布教」をやって、おおいに迷惑がられることもある。

けれども、「なり手」がいないから、面倒でも我慢する、というストレスが発生するのである。

コロナ前に、別の町内のひとたちとの定期的な懇親会があって、そこでの雑談で「市議会が機能していない」という問題について話題になったことがある。

横浜市は、人口がざっと370万人で、行政区は18区、市議会は87人の議員からなる。
小学生のとき「分区」があって、10区から14区になったけど、さらに分区されたのは、「田舎」の人口が激増したからである。

わたしが生まれた昭和36年の人口は、130万人強で、14区になった昭和44年は、210万人強となっていた。
なお、市中心部の人口減少(まん中が空洞の「ドーナツ化」と呼んだ)は、30年代の終わりからすでにはじまっていた。

人口と議員数については、むかし朝日新聞が人口当たりの議員数を「機械的」に全国一律基準で増やすのが「民主主義だ」と主張していた記事を覚えている。

朝日の主張だから「逆神」なので、そんなはずはない、が正解にちがいない。
それに、地方議会は全国一律「一院制」ということが固定化されて、それが、「常識」になってもいる。

そんなわけで、「各区内の町内会や自治会」の会長を、議員としたらどうか?と言ったのは、「上院議員」というイメージだったけど、だれからも賛同されなかった。
そんなことをしたら、「その筋」のひとたちがこぞって「会長」になってしまう「危険」がある、というのである。

さらに、町内会の「規約」を変えて、「終身制」にされたらどうする?と心配するのだけれども、どうやって規約を改定するのかの手続きも変えないとできない。
むしろ、「危険」だから、緊張感があっていい、と言ったら、そんな「生活」は嫌だ、という。

でも、現状の「下請け機関」の困った実態はどうやったら改善できるのか?
既存の地元議員たちは、こんな懇親会にかならず顔を出すけれど、確かに「まとも」な見識を聞いたことがなく、むしろ役人の原案に「賛成する」のが、「議員たる者の常識」らしい。

だから、「どっちもどっち」なのである。

そんなわけで、わたしは「呆れた」けど、みなさんから「呆れられた」ので、雑談はこれでやめて後は諸氏のお話を聞いているふりをしていた。
「下請け」が嫌なのは、楽して暮らしたいのにそれができないから、という一点での「ぼやき」に過ぎない与太話だったのである。

さて、民主党のアメリカがわが国に導入した「教育委員制度」というのも、かんがえてみれば日本人はみごとに「換骨奪胎」して、教育委員会という行政組織はあるけど、とうとう「教育委員長」をなくして、役人がなる事務局長たる「教育長」がトップになった。

市民から選ばれるだけでも面倒なのに、なりたくもない「長」にされたりしたら、楽な生活ができないので、お役人様に任せるという、江戸時代の伝統がいまに生きる。
これはこれで、「合理的」であったのは、こないだまでの世代には厳しい「職業倫理」があったからである。

そんななか、民主党の牙城のひとつ、カリフォルニア州で、鉄壁を誇る民主党支配のサンフランシスコ市教育委員7人のうち、「長」を含む3人が、7割以上が「賛成」という圧倒的多数で「リコール」された。

なお、残りの4人がリコールされなかったのは、就任後の期間が短く、リコール対象にすることができない事情だけだという。
ならばどんな「新人」が選ばれるのかも、今後の興味になるのである。

なんでも「公職」なら、選挙をするのがアメリカの仕組みなので、住民は「楽ができない」という面倒を「ふつう」にしている。
こんな仕組みにしたのは、「民度の低さ」からであるけれど、水の流れのごとく、「高いところから低いところへ」と、わが国もなってしまっている。

前にも書いた、バージニア州知事選のように、「教育問題」がいまのアメリカのキーワードになっているのは、民主党の極左が推進する「批判的人種理論」への市民の反発という「常識」に、振り子が大きく振れているからだ。

これを、「目覚め」というならば、残念ながらわが国の方は、「深い眠り」という「安穏」にずっと浸っていたいという願望が優っている。
もしや、「意識不明」なのかもしれないけれど。

アメリカ人が優れているのではなくて、わが国民が「やばい」のである。

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