数をかぞえたがる習性

日本語の表現はむずかしい.
ことばとして,色の表現だけでも何色あるのだろうか?
大相撲の実況中継を担当していた,杉山アナウンサーが,NHKのバラエティーで,色見本を単語帳のようにして,めくってみては瞬時に「◯色」といえるように自己研鑽しているというのを観たことがある.

相撲まわしの色使いには,古来からの染めがつかわれているから,オリジナルの色を伝えるには,オリジナルの色の名称を言わなければならない.
たとえテレビ放送でも,「きれいな色まわしですね.ご覧ください」とはいえない.「◯色がみごとに引き立つ」とか,さりげなく言うことが「商売」だと.ラジオのばあいは言うまでもない.

語彙力とは関係なく,われわれ日本人と欧米人の言語のちがいで,決定的なことのひとつに「数」がある.
かれらの言語には,「可算名詞」と「不可算名詞」という概念がある.
可算名詞に,単数をしめす「a」があるかないか.複数をしめす「s」があるかないか.
ここまではよいが,さらに,数えられる名詞なのに「a」や「s」がなかったり,数えられない名詞なのに「a」がついたりするから,日本人は大混乱する.

日本語には,これらの概念そのものがないからだ.
そのかわり,おどろくほど緻密かつ繊細な「数え方」がある.
それが一冊の「数え方の辞典」までできてしまうのだから,教養のひとつにもなる.
それで,結構売れたと記憶しているのは,わが家にも一冊あるからである.

勘定すれば,ざっと600も数え方がある.
箪笥は「棹」で数えるが,箪笥(たんす)も棹(さお)もすっかり日常生活でみなくなったから,死語にちかい.
しかし,由緒ある歴史的なたてもので,箪笥をいくつか目にしたときに,「立派な物入れが何個もある」と言ったら,たしかに教養が疑われそうだ.

言葉は生活と密着している,という「あたりまえ」にもどる.
だから,歴史と切り離せない.
われわれの生活とて,時代や時間をしっかり引きずっているから,それが言葉にものこる.
「CD」しか売っていなくても,「レコード屋」と言うし,携帯のデジカメで写真を撮るときには,「シャッターを切る」と言っている.
意識して,こんな言葉をあつめると,「生活」が浮かび上がってくる.

すると,あんがい鎖国しているのがわかる.
外国人の発想を,「かんがえたこともない」のに,近代的文明生活を日々送っているのだ.
これは,「日本中心主義」である.

数え方が600ある,といったら,ふつうの外国人は「まったく合理的でない」とおもうだろう.
アルファベット26文字で困らないひとたちが,48文字の五十音図をみれば,ひらがなとカタカナで倍化し,これに2010年に告示された常用漢字で2136字/4388音訓(2352音読み・2036訓読み)がある日本語は,聞いただけで途方に暮れるはずだ.

漢字の形状を覚えるのも難儀だが,音読みと訓読みのちがいと,どんなときに音読みでどんなときに訓読みになるのかさえ,「重箱読み」というミックスの読み方があるから,「文脈から」という説明になって,相手を絶望させる.

むかし会社で同僚だったニュージーランド人は,一番むずかしいのは「カタカナ」だと言っていた.英語を基調とした外来語が書いてあるはず,とおもえば,「あっぷる」と書いてあったりして,さっぱりわからないらしい.もちろん,「アップル」でさえ,「Apple」の発音から読みとるのは来日したはじめには困難だったという.

ところが,日本に生まれ住んでいると,アルファベット26文字の言語がさっぱりわからない.
とある外国人は,日本人は日本語という言語の習得にとてつもない労力を使い果たしてしまって,おとなになったときにはすでに学習能力を使い切っているのではないか?と評したと聞く.

かくほどに「ちがう」ということは,相手の立場にたってかんがえれば,われわれが外国の言語も含む文化・歴史背景をよく調べなければならない.
とくに,日本文化に惹かれてやってくる高単価層の外国人客を納得させるには,「比較」できるようなうまい説明がないとわからないだろう.それを,「日本文化のオリジナルです」という自慢だけでは,ナルシストの自己満足にしかならない.
だから,観光庁のアンケートで「退屈な日本」という結果になったのだろう.わかりやすいはなしだ.

国際観光産業というなら,入門として小泉八雲の背景も理解したい.
彼は,なぜ「八雲」を名乗ったのだろうか?
数をかぞえたがる日本人の習性に,どこまで気づいていたのか?
気になるではないか?

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