日米共通の「ポピュリズム」

「ポピュリズム」といえば、「大衆迎合主義」と訳して、批判の対象となる政治用語である。
たいがいの「用語」には、「対義語」があるのだけれど、こまったことにポピュリズムの対義語が確定していない。

あるひとは、大衆に対する「エリート主義」をあげるし、あるひとは、大衆の凡庸さに対する「知性主義」や「哲人政治」をあげる。また一方では、リバタリアニズム(自由至上主義)をあげるひともいる。
このように、「確定していない」のである。

対義語が確定していない、ということは、もとの用語の意味も確定していないことになって戻ってくる。
つまり、民主主義において、「ポピュリズム」とは、ほんとうに批判の対象となるものなのか?と。

これを逆転させると、ポピュリズムが民主主義を形成している、ということになる。
なぜなら、選挙において多数票を得ないと、政治家は政治家としての活動ができないし、この多数票を投じるのが「大衆」だからだ。

すると、「大衆とは何者か?」が問われる。

いまここで議論している「大衆」は、いまの世の中での人々を指す。
すると、その「起源」は、近代工業社会にあるのだ。
つまり、「都市労働者」がその中核をなす。
だから、近代の「大衆」とは、近代がつくった社会階層でもある。

この点は、「観光客の定義」と対応する。
近代になって、はじめて「観光客」がうまれたのは、やはり都市労働者の存在が欠かせないからだ。

都市労働者は、一定の賃金を得るので、安定した生活者となる。
「貧・富」、所得の「多・少」という意味ではない。
日給でも、週給でも、はたまた月給でも、あらかじめ提示された給金を提示されたままに受け取ることができるから、安定するのだ。

農業社会ではこうはいかない。

種まきから収穫までの時間と、収穫してから収入になるまでの時間を足しても、あらかじめ提示されるものは何もない。
これに、天候の偶然も加わるから、おもに太陽活動周期による影響で、豊かな時代とそうでない時代とになったのだ。

太陽活動周期の変化スピードに、人間の農業技術が追いつかない時代なら、おなじ農作業をしていても、収量は劇的に変化する。
しかし、都市労働者という層には、農産物物価というかたちで影響しても、収入の安定があるのは、賃金も上昇するからである。

日本の場合、支配層であった武士たちが困窮したのは、武士が実質都市労働者ではなくて、自分の「領地」や「知行地」における収量と現金化の相場に依存していたからである。
つまり、支配層の生活基盤が、もっとも脆弱なのであった。

ここに、ヨーロッパ貴族の精神基盤である、ノーブレス・オブリージュ「的」な、しかし似て非なる「武士道」が独自にうまれたのだ。
しかも、その根底に、外様の石数に比して貧弱な親藩を、幕府内で圧倒的権力を与えることでバランスさせた巧妙があった。

欧米の発想なら、あり得ない。
強いものが独り占めするのを当然としたからである。
強いはずのものが経済的に小さくて、そのかわり権力を与えるとは、権力があるものが強い、という発想の裏をかくから巧妙なのだ。

これを強制した、将軍・徳川家康の絶対的強さは、もっと強調されていい。
しかも、歴代将軍、270年間も、この強制が続いてだれも反抗しないのだ。
だから、江戸時代をポピュリズムとはふつうはかんがえない。

なのに、都市労働者という層ができあがっていて、はやくも元禄時代には、大衆文化が花開くのである。
そして、金銭を積み立てる「講」をつくって、この階層がこぞって、富士や伊勢などに観光旅行をしていた。

この「素地」が、わが国で近代工業社会を成功させたことは、間違いない。

そんなわけで、明治になってすぐに、「自由民権運動」が起き、大正期には大衆に広がるのである。
すると、なんだかいまよりずっと、大衆がダイナミックなのである。
この活動の精神基盤が、「日本教」であったと何度も書いた。

人智を超えた絶対の存在=Godが、支配下にあるすべての人間を「平等」にする。「神の前の平等」である。
これには、「Godは実在する」という、「信仰」が社会の構成員全員の常識としていないと成立しないから、「平等」の前提に「信仰」がある。

トランプ氏の「お別れ演説」でも、このことが強調されたのには、伝統的価値観を基盤にする彼と、彼に投票したひとたちの共通概念としての意味があるから「重い」のだ。

だから、自由の概念の最優先に、「信教の自由」があるのだけれど、日本人の宗教に、Godがないから明治のひとが困ったのである。
江戸期には、「東照神君・家康」がちゃんと設定されていた。

そこで、天皇をGodに差し替えてすえる、「日本教」を発明した。
しかし、天皇は生身の人間だから、「現人神(あらひとがみ)」としたのであった。

この、近代日本人の概念機構を、根底から破壊したのがアメリカ民主党政権だった。
明治教育制度の最後、昭和一ケタ世代までが日本教徒だから、この世代の死滅で、いよいよ薄っぺらな「ポピュリズム」だけが、蒸発した皿に残ったカスのようにみえてきた。

では、ポピュリズムのマーケットとしてみるべきところはなにか?といえば、いまさらながら圧倒的多数の「無党派層」なのである。
この層が、日本教徒の遺伝子をもっているのだ。
にもかかわらず、「カス」が跋扈している。

まるでなかったことにされた、トランプ氏へ投票した8000万票のようだけど、日米の共通点がここにある。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください