栗と薩摩芋とデシベル

この時期の洋菓子といえば、栗のクリームがたっぷりの「モンブラン」がだいすきだ。
それと、栗といえば、栗むし羊羹で、浅草の芋羊羹で有名な名店のそれが、たまらない。

子どものころ、いつか一本まるごとひとりで食べてみたいと思っていたけど、還暦を間近にして、いまだに実現したことがなく、たぶん、一生実現しない。
やっぱり、一本は無理だと思うからである。

練り羊羹は、どういうわけか端っこの砂糖がジャリジャリしたところがだいすきであったが、あっさりした栗羊羹の方が口にあった。
これを叔母さんに告白したら、安い方がいいなら幸せね、といわれたことがある。
でも、好みなのだから仕方がない。

横浜駅から東横線に乗って、ほぼ毎月のように通ったのが、父の実家と墓がある日吉駅だ。
だけど、数えるばかりの記憶しかないものの、コーヒー好きだった父に連れられていった、自由が丘の喫茶店に思い出がある。

それが、「モンブラン」の『モンブラン』という店である。
いつからか、注文するケーキが、「モンブラン」から「サバラン」になって、お土産に買ったサバランに、自分でブランデーをかけ増しして食べていたら母にばれてしかられた。おそらく、酔っ払っていたのだろう。

これが、幼稚園の頃である。

栗に薩摩芋という組合せは、たいへん相性がいい。
ホテルに入社して、とっくに総料理長だった村上信夫専務(当時)の社内講演で、モンブランのクリームに、薩摩芋をいかほどまで混ぜてもわからないものかという話があった。

誤解されると困るから説明すれば、戦時中とか戦後の食糧不足時代の話だと本人が説明していた。
もちろん、ホテルでは混入などもってのほかだと。

でも、ひとの味覚にあやふやさがあることは、プロとしてちゃんとしっていていい知識だとしっかりつけ加えていた。
そのためには、実験が必要だ。
それで、限界まで芋を加えてもわからない比率はいかほどか?

へぇー!
という比率だが、芋にもしっかり裏ごしをして、その独特の繊維質を取り除くことをすれば、という条件があってのことだ。
すなわち、栗100%の方が手間がない。

人間の手間を加えて材料費を安くするのと、人間の手間の費用とをかんがえると、職人の手間がタダ同然だった時代ならともかく、いまはそうはいかないという「オチ」だった。
これは、「ABC(Activity-Based Costing:活動原価基準)」の発想だ。

一方で、むかしの男子がこぞってはまったのが、オーディオである。
ときに、日本製品が絶好調の時代だったから、おそるべき「こだわり」の製品が新製品パンフレットを賑わした。

まだ、CDというものがなかったので、基本は「LP」、それと、「カセットテープ」だった。
LPレコードは、ターンテーブルの回転ムラの正確さ、それと、「針」の性能が競われていた。

カセットテープは、磁気体のちがいで値段がぜんぜん違うし、テープレコーダーのヘッドの性能が比較検討の対象だった。
もちろん、マニアは、オープン・リール派だったので、カセット?というだけで相手にされない。

これに、アンプの性能とスピーカーが加われば、おカネがいくらあっても足りない世界が、すぐにやってくる。
しかも、アンプにつかわれるのが、真空管ともなれば、いかなるトランジスタでも、子どもあつかいされたものだ。

それでもって、なんやかやで指標になったのが、デシベルだった。
じっさいに、可聴域をはるかに超えた再現性が競われたのである。
つまり、「聞こえない」音域のことだから、別にいえば、「超音波」である。

低周波だろうが、高周波だろうが、人間の耳で聞こえないのは、みんな超音波なのである。
これが、ヘッドホンの世界でも語られたから、本当なのか?になった。
「聞こえない」音を再現できる性能を、本当に高性能というものか?と。

「ゆらぎ」の研究で有名だった、東京工大の教授が、ラジオで「聞こえないものを」と笑い飛ばしていたのを聴いた。
いわゆる、過剰だと。

そもそも、録音されたオーディオは、録音時にミキサーがミキシングしてつくった音である。
だから、もし完璧に再現できたとしても、それはミキサーの聴力の再現になって、音源そのものの再現ではない。

栗と薩摩芋の関係になんだか似ているのである。

ならば、どんな混ぜ合わせの組合せがいいのか?
ひとの好みも無限大なので、組合せも無限大である。
それを個別に調合すれば、すぐにオリジナルとなるのである。
すなわち、データベース同士の組合せで可能になることだ。

これからのパーソナル・サービスは、ここに向かうこと必定なのである。

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