正常化する豊臣秀吉の評価

世にも珍しい、「大出世」をした英雄なのか?果ては、晩年の「老害」は最悪だったのか?
「時代」によっての評価が、180度ことなるのも、世にも珍しい人物なのである。

それで、さいきん、「高評価」と「低評価」とにハッキリ分かれていて、「両立」している。
どちらかというと「進歩派」は低く、「保守派=自由主義者」は高いことになっている。

進歩派のそれは、朝鮮半島を気遣ってのことだとおもわれるけど、これも一種の「ポリコレ」ではないのか?と疑うのである。

朝鮮半島を気遣う、ということでは、むかし「天皇家騎馬民族説」というのがあって、あたかもわが国の天皇家ばかりか、日本人そのものが朝鮮出身だという「説」が、やっぱりポリコレ的に流行ったことがあった。

しかし、縄文人の歯髄からDNA分析がされて、日本人のルーツがはるか以前にさかのぼって、大陸系とのハッキリしたちがいが明らかになって、いまや「騎馬民族説」は完全崩壊している。

むしろ、日本人の祖先になる縄文人の素性が、これまでの想定よりずっと古くなってわからなくなったのである。

この手の話を、「ありき」から演繹することは、「学説」としてもやってはいけない論理であるから、科学による鑑定がなかったら「政治利用」という危険な思想の基になってしまうのである。

歴史の評価というのは、どうしても評価する側の価値観が影響するので、評価自体よりも、なにが現代生活での参考になるのか?ということが重要になる。

この意味で、秀吉(というよりも「藤吉郎」あるいは「日吉丸」)が生きた時代は、戦国時代だったことに先ずは注目したい。
すると、土地を耕す農民ならば、領主が誰になるのか?という問題があって、それが「納税」の負担に直結した。

だから、戦国大名の領地経営は、いわれるほど「酷い」と、農民が流出して生産力が落ちてしまう。
完全消費者にあたる武士団を保持するには、領内の生産力が確保できないと、たちまち滅亡の危機にさらされる。

そんなわけで、『大魔神』に出てくるような理不尽な戦国大名が実際にいたら、なにも大魔神によらなくとも、近隣の大名によって滅ぼされることになるのは、逃げた元の農民たちが、手引きをするにちがいないからである。

すると、用語が当時あったかどうかは別にして、あんがいと「善政競争」をやらないと、戦国大名の方が生き残れないという、じつは為政者にこそ必要な「善」の緊張感が、戦国時代の特徴でもあるのだ。
しかも、内輪からの「下剋上」まであった。

上司に絶対的に仕える、という感覚と道徳は、安定した徳川期に形成された。

後に天下人となるこの人物は、全くもって「どこの馬の骨」かが、相変わらず不明なのである。
一応、いまは名古屋駅の「太閤口」側に広がっていた、「中村」という場所に住まっていたことになっている。

それで、これまたどういう訳か、浜松の「松下家」という家康の親戚筋の家に就職した。
けれども、当時は「今川家」の支配下だから、松下家がどれほどのものかといえば、たいしたことはない。

もちろん、武士として採用されるはずもないから、下働きとしての採用だったにちがいない。
しかしまた、どういう訳かわからないが、ここを辞して、結局は信長のもとでの就職をした。

桶狭間の戦いの「前のこと」なので、当然ながら信長の一般での評判は「うつけ者」だったはずである。
どうして、この家を「選んだ」のか?がわからないのだ。

これは、現代でこそ心当たりがあることになる。

就職前にわかっていることと、わからないことがあって、たいがいが「わからないまま」に就職して、わかってきたら「辞める」のが、現代若者事情だからである。

しかし、いまはむかしとちがって、ちゃんと「企業評価」をするために、学生達は「企業理念」を、その企業のHPから学んでいる。
それで、入社して「嘘」に気づけば、退社するのはしっかりした見識を若者の方がもっているということだってあるのだ。

これを、中高年の同僚や経営者が、「さいきんの若者は」といって嘆くけど、「嘘」に慣れてわからない悲惨は、このひとたちにある。

順風満帆の成長期ならまだしも、なにが起きるかわからない戦国時代にあって、大名家に就職するとは、選ぶ側にどんな事情があったのか?あるいは、あまた選択肢がある中で、どうして織田家を選んだのか?

「これだけ」でも、命にかかわる大決断なのだ。

それで有名なエピソード、主人の草履を抱いて温めた、とは、やった側の意図もさることながら、やられた側の信長が、これより彼に目をかけるようになったことの方に関心が向く。

いまなら、経営者はどんな評価をするのだろうか?と。

戦国大名家は、命がけのしのぎを削って生きているから、「戦」となれば、家人の男はみな命がけの仕事が要求される。
この点、現代の民間企業なら、ここまで要求されることはない。

しかして、信長は草履事件から間もなく、彼を「侍大将」に抜擢した。
ワンマン故の人事として、周辺の目はいかがだったものか?

晩年、秀吉が「バテレン追放令」を出したのは、なんと宣教師たちが「人身売買」を仲介して、東南アジアやらへ男女を問わず奴隷として送り込んでいたことが発覚したからだった。

その数、ざっと5万人。
主に九州の「キリシタン大名」の領地からの「輸出」だった。
これが、初期「からゆきさん(唐行きさん:「唐」=東南アジア)」なのだ。

奴隷とは所有権を「奴隷証書」として「登記」される対象者のことなので、「証書」をもって売買の対象になったから、この証書が証拠になっていまに残っている。

東南アジアばかりか、「南米」にも日本人奴隷が多数いたことが「証書」の発見からわかってきた。

むかしは「朝鮮征伐」といっていたものを、「朝鮮出兵」というから話がおかしくなる。
「征伐」が正しいのは、朝鮮人を征伐するのではなくて、朝鮮を支配していた「明軍」を征伐するという意味だ。

どうして秀吉が「明」に楯突いたのか?
スペインがフィリピンを拠点に、明の沿岸部を植民地支配する計画があるのに、明が放置していたからである。

なんだか、はるか未来の日清戦争の「理由」と似ている。

しかして、スペインはイングランド海軍によって無敵艦隊が全滅(1588年)してしまったので、アジアが手薄になったのである。
秀吉の死で中止になって、関係がなくなったかにみえるけど、それからスペインに代わって英・仏・蘭がアジアを支配することになった。

家康が「鎖国した」事情は、これであったが、アジアにとっての不幸を放置したのでもあったけど、日本人奴隷を「棄民」したのでもあった。
秀吉も、家康も、おそらくそのスタッフたちも、あんがいと「海外情勢」をちゃんと把握していたことは、いまよりもずっと深いと覚えていていい。

いまの日本政府は、「邦人保護」をなにもしないで放置している「不道徳」があるけれど、あんがいと家康の「棄民」政策は「保守」しているのである。

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