没コミュニケーションという時代

2018年の年頭にあたって

ファストフード店がはじまったころから,だんだんお店のひととの会話がすくなくなった.個人商店が減り,大手のチェーン化がすすんだ結果である.
機械的なやりとりで要求がつたわり,機械的なやりとりで商品を受けとり,機械的なやりとりで精算をすませる.ここには,「人間味がある」会話がはいるスキがない.毎日かよう店でも,「いつもの」でとおることはないし,「昨日おみえにならなかったので心配しました」ということばも期待できないし,実際にない.

酒やたばこを買いにこどもを遣いにだしても,年齢認証ができないから買い物にならない.「間違い」はないが,どこか間違っている.
正当な行為にたいしての「報酬」をえる,という社会的「訓練」ができない.お小遣いは,なんの苦労もなく,ただもらうもの,になりさがってしまう.兄弟がいないから,すでに「おじ」「おば」も珍しい存在だ.むかしは,そういった大人たちが,ほんとうは小遣いをあげたいが,親の手前もあって,わざわざ買いものを依頼したものだ.それには,嗜好品である酒やたばこがちょうどいいアイテムだった.相手がこどもだからといって,なにもしないのにただお金をえるのは,乞食行為とさげすんだからだった.もらう側の親にも気骨があったのだ.

機械的だから,間違いをおこすのは人間である.それで,レジに自動釣り銭機能をつけたら,釣り銭間違いがなくなった.機械はミスをしない.そこで,人間がおかす間違いを「ヒューマン・エラー」と呼ぶ.
だから,没コミュニケーション時代には,ヒューマン・エラーがつきものになった.

ヒューマン・エラーは個人の責任か

ヒューマン・エラーが「原因」の「事故」が発生すると,またか,といって「個人」の責任がとわれることがある.

たとえば,トラック運転手が,積み荷の荷崩れによって生じた損害を負担させられることがある.会社のいいぶんは,運転が雑だから,ということだが,道路事情にもよる問題だ.であれば,ゆれない荷台にする投資を会社はしないと理屈に合わない.

これが,人身事故につながったら,その責任は「個人」ではすまない.だから,きちんとした原因分析と対策は不可欠になる.

食品こそ慎重に

アレルギーによる「事故」になると,生命にかかわるほど重大な問題に発展しやすいのが食品である.食中毒もしかり.これらはすべて会社の責任になる.社会的には,絶体に「会社の責任に『する』」のだ.

没コミュニケーション時代では,些細な問題など存在しない.没コミュニケーションゆえに,消費者はクレーマーに変身する.それしか,表現方法がないからだ.これは,合意の欠乏でもあるから,要求が一方的になるのだ.「モンスター」は,特別なひとがなるのではなく,没コミュニケーションがもつ原理からなる.

ならば,コミュニケーション特化型というやりかた

世の中の流れにしたがうのは,ときに賢明ではないことがある.没コミュニケーションに歯向かって,コミュニケーション特化型という道がある.

お客様とのコミュニケーションをいかに深めるか?それには,会話術もひつようだ.そうやって,ビジネスをひととひとのお付き合いに転換させることが,あんがい渇望されている可能性がある.

これは,人間の本能につうじるからだ.ひとが言葉を得たのも,他人とのコミュニケーションのためだからだ.

ひとは間違いを学んで賢くなる動物だ.間違わない社会は,ひとを愚かにする可能性がある.それは,プラトンの「メノン」におけるソクラテスのことばではないか.いまの家庭や学校で,ちゃんと間違えることを教訓に教えているのだろうか?

企業においても,上司は部下に,適切に間違いを経験させることも重要な教育なのである.

宿はお客様とのコミュニケーションに,どんな道具立てを用意するのだろうか?その道具立てが,宿の個性になる.それは,没コミュニケーションを推進する,ホテルとの棲み分けにもなるだろう.

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