『新訳聖書』のなかの、「ヨハネによる福音書」冒頭、第1章第1節に、「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。」とある。
これは、人間にとっての根源的現実だと、信者には解されている。
さらに、第14節に、「言は肉となって、」とあって、第20章第30節の小見出し、「本書の目的」と続き、第31節に、「イエスは神の子メシアであると信じるため」と続いている。
言葉から生まれたのは、肉体をもった者であって、それがついに信仰の対象へと移ろっていく。
しかして、「god」を「神」と誤訳したことの痛恨は、かえってキリスト教の布教を困難にした。
わが国伝統の、「八百万神」のなかの、「ひとつの柱」に、絶対神が落ち込んでしまったからである。
この原因は、明治期に、「中国語訳聖書」から、「日本語訳」をつくるときに起きたという。
信長や秀吉の時代、「切支丹、伴天連」といっていたころ、日本人信者たちは、「god」を、「デウス」と呼んで、日本の「神々」と分けていた。
なので、われわれ日本人は、世界でもっともキリスト教が普及していない国の住人だと自己認識もしていようが、わたしはこれを、「プロパガンダ」の効果だとかんがえている。
そして、同様のプロパガンダで、「無宗教の民族である」と信じ込まされてきたのである。
このブログでは、繰り返し書いてきたが、日本人はおそらく世界最強の宗教的民族なのだ。
これを日本人から忘れさせるのが、以上のプロパガンダの目的である。
なぜなら、そうしないとキリスト教の国であるアメリカ合衆国に、ふたたび楯を突くことになるおそれがあるからだ。
プロセスとして、キリストへの信仰と、日本人を無宗教だと信じ込ませることとは、「おなじ」だ。
一向宗徒による、「一向一揆」が盛んだったのは、近江・金森合戦(1466年)を初めにして、石山合戦(1570年~1580年)へと、各地を拠点にして100年以上も続いたのである。
フランシスコ・ザビエルが来日してキリスト教の布教を開始したのは、1549年だから、宣教師たちが布教に努めたのは、一向一揆とほとんど同時代なのである。
しかして、いま、「浄土真宗」と呼んでいる、当時の「一向宗」の本質とはなんだったのか?
誰もが教科書にある、宗祖親鸞の、「他力本願」と「南無阿弥陀仏を唱えること」を暗記させられただろう。
これが意味することをわざと教えないのが、わが国の戦後学校教育の特徴で、よくよくかんがえれば、親鸞は彼の師、法然とともに、仏教を装って、キリスト教を発明したのである。
わが国で最大信徒を抱える、巨大宗教とは、浄土真宗に他ならず、彼らのパワーを怖れた徳川家康の策略によって、「檀家制度」と、東・西に本願寺を分裂させていまがある。
ちなみに、お節介なフランス人は、仏教の分類上、「浄土真宗」を仏教だと認めていない。
およそ宗教とは、信じる者がいて成立する。
邪悪なGHQによる征服で、日本人は、信じるモノを喪失させられたので、いつの間にか、「科学万能主義」あるいは、「拝金主義(エコノミックアニマル)」を信じるように誘導された。
それがまた、無神論の宗教、共産主義と親和性が高いので、「党員」の手塚治虫は、『鉄腕アトム』を描いて、当時の子供世代から洗脳を謀ったのである。
つまるところ、半世紀以上の時間をかけたら、日本人の全員が、こうした洗脳を受けた世代に染まったのである。
ゆっくりと、だが確実な民族破壊の実践なのである。
そんなわけで、わたしの子供時分から、保守の重鎮たちは口を揃えて、「日本語が危ない」と言っていたのが、いまさらながらに思い出されるのは、日本語がいま「絶滅危惧」の崖っぷちにある状態だからである。
これを、石井光太氏が、『ルポ 誰が国語力を殺すのか』(文藝春秋社、2022年)で突きつけている。
この書籍の中でも、わたしの気にさわったのは、序章にある、文科省が、OECD加盟国の生徒の学習到達度調査(PISA:Programme for International Student Assessment)に対しての、「傾向と対策」を実施していることである。
この三流官庁は、責任逃れだけにしか興味がないから、とにかく批判を回避したいのだろうが、その方法が、「お受験対策」とおなじにしている。
もちろん、わが国の生徒たちの成績が、世界標準に対して芳しくなくとも、「言葉=母語=国語」ということにおける、教育目的と方針が、国民に納得できるものであれば、ぜんぜん浮き足立つこともないのである。
その証拠に、数学的リテラシーと科学的リテラシーに関しての成績は、相変わらず上位に位置しているのだ。
つまり、より客観的評価が容易な科目では、とくだんの問題はない。
すると、外国との比較対象として、「国語」は適切な対象なのか?をかんがえないといけない。
これが、「英語」となれば、OECD加盟国中で、常に最下位なのを恥じてもせんないのだ。
言語とは、『聖書』にあるように、文化そのものだからである。
だから、言語についてのリテラシーを、国際比較するとは、文化を比較するに等しい、ムダではないのか?
本書で、中学校の校長(元は国語教師)が登場して嘆く、「今の子は知識の暗記や正論を述べることだけにとらわれて、そこから自分の言葉で考える、想像する、表現するといったことが苦手なので、国語に限らず、他の教科から日常生活までいろんな誤解が生じ、生きづらさが生まれたり、トラブルになったりしてしまうのです」の方が、外国との比較より、よほど深刻なのである。
わたしの中学校卒業クラスも、国語教師が担任で、先生が亡くなるまで、だいたい毎年クラス会をやっていた。
先生も、校長になったのであるが、もう20年以上も前に、この本の校長のようなことを嘆いていた。
それが、「今の子は何を考えているのかわからない」だったのである。
しかし、この本でよく分かった。
なんと、「言語化ができない」のだ。
自分の思っていることを、言葉にすることができない。
だから、親であろうが誰であろうが、その子の苦しみを推し量ることができないのである。
つまり、とっくに言葉(国語)を失っているのである。
この子たちは、もうすっかりおとなになって、社会の中堅にいる。
これが、日本経済の衰退原因ではないのか?と疑うのである。
現場レベルで、言葉が通じあわないのなら、それはもう、『旧約聖書』で描かれた、「バベルの塔」の逸話とおなじではないか。
国民生活のためにも、経済活動のためにも、先ずは、文部科学省なる省庁を廃止すべきときがきている。