男は女からできている

聖書の記述における決定的なまちがい。
それが、神によって自分に似せた人間が最初に造られ、そのひとの肋骨から女を造ったという、あの記述(旧約聖書・創世記2:18~24 )である。

ただし、『聖書』は、さまざまな文化圏の影響を受けているのは間違いなく、「歴史書」とされる「旧約聖書」にはそれが顕著である。
もちろん、キリストの死後に「編集」された、「新訳聖書」も同様だ。

「科学」では、人間は、ぜんぶが女として発生し、途中からだいたい半分が男になることが「ある」ようにできている。
その途中からの分岐を司るのが、「Y染色体」という遺伝子群だ。

なので、人間の基本となる「X染色体」しかないなら、そのまま全部が女として生まれてくる。

外見上での男女のちがいは、下腹部に集中するけど、哺乳類として男には不要な「乳首」があるのは、もとが女だった名残である。
それが乳房として発達しないから、平坦なままに放置される。
こうして男に、「授乳」という子育てができない理由になっている。

一般に、「進化」は合理的だとみられているけれど、どうして男に授乳機能を持たせなかったのか?ということの合理性は、わかっていない。
「母性」を男に持たせないため、という「説」があるけど、「確定」してはいないのだ。

なぜに男に「母性」を持たせないのか?の合理的理由がわからないからである。

人間が生きていくために必要な、食の摂取には、水分補給も含まれる。
しかし、同時に、排泄もできないとすぐさま死んでしまうのも人間だ。
とくに、尿の排泄ができなくなると、全身に毒が回って臓器不全を起こす。

尿とは、血液を濾してつくられるものだからである。

つまり、小便とはもともとは血液だ。
生体活動における不要物とは、体内で化学変化したできた「毒素」のことで、血液にたまるからこれを濾過して体外へ棄てるのである。

哺乳類の場合、胎児は自身の体内でできた毒素を、母体に回して排泄している。
これを、「へその緒」を通してやっている。
だから母体は、母自身の毒素と胎児の毒素の両方を排泄している。

このことが、スイッチとなって、母乳が分泌するようになっているとかんがえられている。
すると、母乳も一種の排泄物だともいえるのである。
それがまた、血液を材料にしてつくられるのだ。

そもそも「生命の誕生」について、さいきんでは「ジャイアントインパクト説」が有力になっている。
45億年前、誕生したばかりの地球に、火星規模の天体が衝突した、ことで地球が大きくえぐれて「月」ができたという。

それだから、アポロ計画で持ち帰った「月の石」が、地球の「石」と何ら変わらない、ということにもなっている。
ただし、アポロ計画が本当に「有人月旅行の成功」だったかどうかは、いまだに疑問があることも否めない。

おもに太陽からの放射線に、生物としての人間が耐えられない、という疑問が晴れないからである。

それで、ジャイアントインパクト説に戻ると、大きくえぐれた地球が内部をさらすことにもなって、さまざまな物質が地表に出た。
もっとも重要なポイントは、水蒸気があがってやがてそれが「海」をつくったことである。

ここに、驚くほどの物質が溶け込んで、さらなる隕石の衝突で「アミノ酸」も飛来したという。
一方、できたての「月」は、いまよりずっと地球に近かったので、海の潮位変化は驚くほどの激しさだったという。

この巨大な力で「かき混ざる」ことで、さいしょの生命が誕生した、というのだ。

それからの「進化」の歴史で、いつしか「雌雄の区別」ができたのは、個体としての環境変化に対応するための「工夫」だったとかんがえられている。

しかし、そんな工夫が起きるのはずっと後のことで、細胞はウィルスとの戦いにのぞまないといけなかった。
自分のエネルギーを横取りして増殖しようとするからである。

それで、外部からの横取りに対抗するための「免疫」ができたし、一方で自身のためになるならと、ウィルスごと細胞に取り込む、という手もつかって、これがエネルギー発生装置としての「ミトコンドリア」になったのである。

そうやっているうちに、生殖における子孫を残す方法として、雌雄の区別ができて、とくに「卵」は「胚発育」のために栄養を蓄えて大型化する一方、「精子」は小型化しながら運動能力を備えて、遭遇確率を上げることになったのである。

もちろん、この運動は「べん毛」を動かすためのエネルギーを必要とするから、その根元にもミトコンドリアがあるのだ。

さて、生体として、生殖能力を失ったら、たいがいの生物には「死」が訪れる。
それは、子孫が成長に必要とするエサなどを前世代の個体が食べて減ることを避けるためでもある。

ここに、男性が女性より寿命が短い理由があった。
なんと、人類という「種の保存」にあたって、男性は「使い捨て」という運命を最初から背負わされている。

この究極の伝説が、『アマゾネス』となったのである。

ただし、トルコの黒海沿岸にあるテルメ村(Terme)が「首都」とされ、ギレスン島に女王がいたという。
これらにアマゾネスの実在を示す遺跡があるから、トルコ人は伝説とは思っていない。

そうなると、なんだか哀れなのは男であるから、弱い者が集まってつくったのが「男社会」なのだ。

力を持って制する、という遺伝的特徴の欧米人の野蛮が、女を所有するという概念を持った。
お互い様という概念を持っている日本人には、畏れる者として「かみさん=神様」になったのである。

「恐妻家」というふつうが、日本文化なのは、こういうことなのであった。

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