石に価値をつける

「貴石」なかでも「宝石」は,だれでも貴重だとおもうから,最初から価値があるとかんがえる.
しかし,それがちゃんとした「宝石」だと思わせないと,「宝石」だとわからないこともある.
だから,「宝石」の知識が人びとにあって,はじめて「宝石」の価値がうまれる.
それでも,ただの石だとおもうひとは,それが「宝石」であっても目もくれないものだ.

マルクスの資本論は,さいしょに「労働価値説」を土台にしている.
単純化して,時計工場の例で説明している.
これを真っ向から否定したのが,小泉信三の名著「共産主義批判の常識」(新潮社,1949年)であった.

海女が海底から貝を得る労働と「おなじ労力」で,石を持ち帰っても無価値であると.
つまり,労働がすべての価値をつくる,というマルクスの説は間違いで,「市場価値」がなければならない,と説いた.もちろん,マルクスはその「市場」も否定していたから,これだけで小泉博士はマルクスを撃沈させた.

マルクス信奉者たちは,さまざまな「理論」をもって「科学的」と自称していたが,それは「似非科学」の「宗教」であった.しかし,こんなことが,1991年のソ連崩壊まで信じられていて,今年の「マルクス生誕200年」を「祝おう」というのだから,どうかしている.

「福祉国家」といえば,「スエーデン」として崇める学者ばかりの日本にあって,そのスエーデンの元首相が,マルクス批判をしている記事はこのブログでも紹介した.

わが国で宝石の県といえば,山梨県があげられる.
もともと,水晶の産出で栄え,いまでは人口当たりインド料理店が日本一というほどに,インド人の宝石商がおおく在住していることでも有名である.
彼らは,世界に向けて日本の加工技術を売っている,とかんがえると,なんだか頼もしいが,ほんとうは,それを購入する顧客が日本人であってほしいものだ.

それで,県内とくに甲府周辺には,観光客に向けた大型「宝石店」がある.
おもに大型バスでやってくる観光客が相手である.
こうしたシチュエーションでは,外国の観光地でもおなじだが,乗客たちの財布をいかに開かせるかのテクニックが問われるものだ.

つまり,購買意欲がほとんどないか,買うまい,と心に決めてバスを降りるひとたちとの神経戦がはじまるのだ.
そして,どこか怪しい雰囲気で「説明」がはじまる.
それは,お客の「意志に反して」,「石に価値をつける」作業のはじまりでもある.

店によって独特の工夫があるのだろうが,物語は駐車場からはじまっている.
これは,一種のテレビ・ショッピングのリアル版なのだ.
店内の回遊式の構造は,たいへん効率的な流れをつくっている.
最初の「掴み」である専門的な説明から,じつに大雑把なはなしまでの混在が,購買心理に火をつけるのだろう.ちゃんと「起承転結」になっている.

こうして,地球上にありふれた「石」が,購入されていく.
もちろん,買わないひとは一切買わない.
すごい,と思うのは,このネット時代に,こうしたやり方がおそらく何年もかけて開発され,いまでも成立していることなのだ.
一歩まちがうと,大トラブルになりそうなものだが,そうならないギリギリの一線が,ある意味緊張感を生んでいる.

本物とニセモノが混在したような,混沌が,それなりの市場を形成しているのだろう.

ものが売れないのは,売れない理由がある.
人的サービス業の不振も同様で,不振には不振の理由がある.
一方で,その場で売り切ってしまえば後はどうでもいい,というかつての観光客向け掠奪産業では,なにを投稿されるかわからないし,永続しない.

石に価値をつける.

簡単そうで簡単ではないだろう.

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