社長のリスクと部下のリスク

人間だから、だれでも「じぶん中心」に物事をかんがえる。
「自己中」は、あたりまえなのである。
しかし、そこで、一歩たちどまって再考することができるか、できないかが、ほんとうに物事をきめる。

社長にもとめられる「無謬性(まちがえないこと)」は、カリスマ性につながっているから、この間まで従業員だった人物が「社長」になったとたんに、神様のようなふるまいを要求されるようになる。

そして、社長に選ばれるような「まじめ」な人物であるほどに、その要求を「理不尽」とせず、きちんと受けとめようとして、「権威主義」の誘惑に負けるのである。

あたりまえだが、上述の誘惑をものともしない「人物」もいる。
「社長」とは、なにをする役割なのか?について、たちどまってかんがえたひとである。

こういうひとは、情報に敏感でかつ飢えている。
いわゆる「丸投げ」を嫌う。
それで、会社に持ちこまれるさまざまな情報に、みずから直接接することを「ふつう」だとかんがえるのである。

資本集約的な産業(高度な機械設備などを要する)にいれば、その導入について部下まかせにしない、という意味だ。
みずから積極的に良否を判断するための勉強をする。
そんな会社は、「小田原評定」をきらうのはあたりまえである。

労働集約的な産業(人間による仕事が主になる)では、ひとの採用について、担当者まかせにしない、という意味だ。
ホテルや旅館業は、土地と建物がないと成立しないから、資本集約的な産業であるけれど、接客のための従業員が不可欠だから、労働集約的な産業でもある。

だから、ほんとうは製造業の社長よりも、かんがえなけれなならない範囲がひろいのだ。
これに、かんがえる深さもあるから、ものすごく難易度がたかい。
その責任者としてのリスクもおおきいのだ。

一方で、社長以外の「部下」をみると、自己中でいられる立ち位置でもある。
じぶんは社長になる、とおもわなければ、よりその立場がはっきりする。
だから、現状維持が重要なのだ。

たくさんいないはずの、じぶんは社長になる、とおもっているひとは、もちろん現状維持を優先などしない。
それよりも、じぶんのしごとにおける失敗をきらう。
これは、社長のイスが近くなればなるほどにでてくる傾向で、さいごは同僚の失敗を歓迎するのである。

あたかも、現状維持とそうでないひとのかんがえかたはちがって見えるのだが、じつは本質的にはおなじなのだ。
つまり、失敗をしてはいけない、という強い思いがあるということだ。

これが、「大企業病」の病根である。
その病気をより悪化させるのが、トップによる権威主義の存在である。
だから、トップがみずからの役割に忠実で、かつ誠実ならば、大企業なのに大企業病に罹患すらしないでいられる。

ひとは、こういった会社を、尊敬をこめて「優良企業」とよぶ。
たんに、業績がよい、という意味ではないから、区別のために「超」をつけることもある。

大企業でないのに「大企業病」になってしまっている会社もたくさんあるのは、上述の「メカニズム」がおなじだからである。
だから、規模の大小はとわない。

すると、どうやって「優良企業」のようになれるのか?ということの方法論がみえてくる。

「失敗をしていい」という風土を、トップがつくればいいのだ。
しかし、これだけでは言葉遊びになってしまう。
「もの」や「こと」の本質をみるめをやしなう訓練が、組織的に必要になる、という認識がなければならない。

たとえば、「もの」の売りこみならば、採用したばあいのメリットとデメリットのかんがえられるかぎりでの比較検討だ。
ふしぎなもので、かんがえられるかぎりでの比較検討、を繰りかえしていると、かんがえる範囲の「かぎり」がひろがるのだ。

その「もの」を導入した部署いがいにも、影響がおよぶことがある。
すぐれた「もの」ほど、影響がつよい。

すると、人物評価や査定における基準が、従来の「あたりまえ」ではなりたたない、という影響もみえてくる。
その「あたりまえ」が、「失敗はゆるされない」をつくるからだ。

そうやって、居心地のよい、けれども業績がふるわない企業ができて、従業員から見放されれば、人材もあつまらないという循環になる。
人口が減っているからしかたがない、のではなくて、そういった循環を自分たちでつくっているのだ。

なぜなら、応募がたえない会社はたくさんある、という事実がしめしているからである。

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