第二次「公職追放」の可能性

「メッセンジャーRNA」を、「人工的に加工」した、人類初の「薬剤」を、「ワクチン」と称しただけでなく、「治験」なるいいかたの「人体実験」を、全世界で実施したことでの、「薬害」についての責任を誰がどうやって果たすのか?ということが、この先「犯罪」として認識されたとき、どうするのか?ということになる。

もちろん、あらかじめ「想定しておく」という意味での検討だ。
そのときになって、「想定外だった」とは言わせないための、準備でもある。

じっさいに、各種「副作用」によって、死亡を含めた深刻な「被害」が報告されはじめていて、一方でまた、接種者に「免疫機能の低下」がみられるということも調べ出されているから、本人の一生をかけた「長期戦」も「想定内」になってきている。

なお、「副反応」なる「新用語」が、専門家によって意識的に使われたけれども、本稿では「副作用」に統一する。

「訴訟王国アメリカ」が、決していいと日本人の多くが憧れなかったのは、なんでも「裁判」をやることの「野蛮」を体感的に知っていたからである。
これを、日本人は「道徳の欠如」といって嗤っていたのだ。

つまり、日本人たちは、裁判が起きるようなことを「しない」という、自己抑制に長けていた。
それが、「お互い様」というかんがえ方で、自分の「嫌」を、相手も「嫌」だと先回りして、その「嫌」をなるたけ要求しなかったのだった。

何度も書くが、これこそが、「個人主義」なのである。
自分さえ良ければいいという、「利己主義」とはぜんぜんちがうし、ましてや「利他主義」を美しいと誤解してはいけない。

「他人のために自己犠牲をいとわない」とは、「自己陶酔」すらできるものだ。
だから、社会全体でみんなが「自己陶酔」すると、とんでもないことになる。

つまり、そんな「利他主義」を支配者が「活用」したら、たちまちにして「社会のため、みんなのために死ね」と命ぜられても、粛々としてそれに従うことを、「社会から強制」されるからであって、もう誰にも「拒否」できなくなってしまうのだ。

これが、もう世界でマスクをしている者がいなくとも、日本で「マスクを外せない理由」になっている。
科学ではなくて、社会的制約としての「政治になった」ということなのだ。

共産主義がかならず全体主義をともなう理由が、この「利他」こそが、「共産」と同義だからである。

だから、いまどきの政治家が、あたかも民主主義だからといって、「みんなのため」を強調したら、それは、骨髄反応として「危ない」とおもって差し支えないのである。

むしろ、「自分のため」とか、せいぜい「自分の子や孫のため」という言い方が、「個人主義」になるから、「お互い様」に回帰する。
お互い様だから強制するのではなくて、相手の自由意志を尊重できるのである。

それゆえに、日本人がこぞって「欺された」民主主義とは、「(投票)システム」なんてことではなくて、全員が「個人主義で、強固な道徳社会」でないと「実現しない」ものなのだ。

すると、民主主義の「本家」アメリカとは、「個人主義」から「利己主義」に変容して、「強固な道徳社会」でもないから、すぐさま「裁判」となることがわかるのである。

つまり、アメリカの民主主義は、とっくに死んでいる。

アメリカでこの両方が揃っていたのは、「清教徒」が移民していた時期「だけ」だったのである。
その後、喰えないヨーロッパ人が大挙してやってきて、「強固な道徳社会」を維持するのが不可能になったばかりか、「個人主義」が駆逐されて「利己主義」になったのだった。

さらに、「利己主義」から、より道徳的、という宣伝で、「利他主義」がはびこりだした。

これを、民主党が「民主主義の輸出」といって、相手国民のためという「戦争」を仕掛けるのは、ぜんぜん道徳のない、ただの「武器消費」による軍産複合体への利益供与にすぎないことが、もはや「ウクライナ」で明確に世界にばれた。

なお、「民主主義の輸出」とは、グローバリズム本家の「(国際)共産主義」がいう、「(共産)革命の輸出」とまったくおなじパターンなのは、スターリンに追い出されたトロツキーが、アメリカに亡命し、民主党を乗っ取ったことの「キャッチコピー」だからである。

さて先頃、ファイザー社に対する、「情報公開請求裁判」で、原告が勝訴して、隠されていた情報が「強制的に公開」されて、アメリカで大騒ぎになっているけど、例によってわが国のマスコミは伝えていない。

それが、会社が想定していた「副作用」が、「1200種類」にも及んでいたことだった。
1200件ではなくて、「種類」である。

こうした「事実」は、かならず日本でもそのうち「公式認定」される。
すると、これまでの「話が違う」ことへの、「弁明」はもちろん、事実上「接種を強制」したことの、副作用に対して、誰がどんな責任を負うのか?ということが、目前に迫る事態となっている。

政府を仕切った政治家、分科会の専門家、厚生労働省は「当然」として、役所内でも民間企業でも、これを「実行させた責任」を免れることができなくなる。

まったくもって、「アイヒマン裁判」のような様相になってきた。
「副題」のとおりの、「悪の陳腐さ」が、日本社会でも多数のひとびとによって「再現」されたのである。
その被害者は、可哀想なユダヤ人ではなくて、従順な日本人だった。

あまりも広範囲に及ぶ「事態」となることは、確実なので、第二次「公職追放」ということにもなりかねない。
ただし、前の公職追放(約20万人)は、優秀なひとたちが対象だったけれども、今回は、無能なひとが対象だから、あんがいと国民の福祉に貢献する。

ただ、日本人の寛容さが、これを許すのか?それとも、うやむやにするのか?ということはある。

アメリカナイズされてしまったいま、それに、「怒りの物質」が脳内に出やすい食生活を強いられていることもあって、あんがいと、「容赦ない」ということも想定内にしないといけなくなっている。

「頸を洗って待っていろ」となるのか?がこれから起きることだけど、みんなで渡った赤信号だったゆえに、対象者が多すぎて、どうにもならないから、せめてものひとたちの頸がさらされることになるのだろう。

しかして、たとえ「責任回避」しても、「トカゲのしっぽ切り」をしても、従業員に組織的接種を勧めた民間企業の経営者は、今後の「統治」が困難になることは、まちがいなく、これを受け入れた「労働組合」も同様なのである。

つまるところ、「大津波級」の事態が予想されるけど、知らんぷりしてやり過ごすのか?

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