経営者は経営者が書いた本を読まない

経営者は本を読まない、のではない。
経営者は、他人の経営者の本を読まないのである。
では、どんな本を読むのか?
あんがい哲学書を読んでいる。

日本人は会社を「共同体」と認識する傾向がつよい。
つまり、「家族」というイメージだ。
これは、学校時代から育まれるようになっていて、自分が所属する組織にたいする「忠誠」をなによりも重視するように仕向けられている。

その頂点が高校野球だ。
自校以外は「敵」であって、野球というゲームを楽しむという目線より、勝敗こそが全てになるのである。

日米のプロ野球でも、その応援スタイルのちがいは顕著で、さいきんではアメリカから日本の特定チーム応援ツアーがあるのは、アメリカにおける伝統的「共同体」の喪失がそうさせるのかもしれない。

いっぽう、日本でも地域における「共同体」は、農業をつうじて連綿とつづいてきたが、産業構造が農業を見捨てたと同時に、もはや消失してしまった。また、下町とても、商工業を自宅でしていた人口がなくなってしまえば、同様に「共同体」は失われる。

これを、続いているように見せかけるのが「祭り」である。
全国の自治体が、祭りに予算を投じるのは、近代以前への郷愁であり、またそれが、幕藩体制における地方に中心があったことの誇りでもある。

どちらにせよ、喪失したものを喪失してはいないという方便のために努力するのは「共同体」の「共同体」たるロングテールのゆえんであろう。

したがって、安定の時代の日本企業の経営者には、「共同体」の主宰者であることが要求される一方で、経営者としての経営能力自体はあまり問われないという特徴がでてくる。
すなわち、ここ一番の出番は、めったに要求されないのだが、ここ一番では浪花節がものいう。「ウェット」といわれるのはこれだ。

ところが、キリスト教共同体を長い間保持してきた欧米にあっては、宗教という共同体がなんだかんだ維持されているから、会社が共同体にみなされることはほとんどない。だから、日本人には「ドライ」にみえる。
もちろん、あちらの文化に浪花節はつうじない。

しかしながら、あちらの成功した経営者の本を読むと、かなりの確率で、浪花節のようなことをいっていることに気がつくものだ。
いったいこれはどうしたことか?

国籍や宗教がちがう何びとであろうが、ひとは人である。
成功した経営者というのは、たいがい有名大手企業の経営者だ。でなければ、本を出さないし、その本が日本でも出版されはしない。

こうしたひとたちの経歴には、それなりのエリート性があるもので、有名ビジネススクールの卒業生も多々みられる。

ビジネススクールを誤解してはならないのは、やはりジョブディスクリプションがあるのが前提の社会とそうでない社会の差になって、「ある」社会では「経営の専門家」として扱われることである。日本のように「ない」社会では、たんなる「学歴」として人事票に記載されるだけだ。

「エンジニア」ならこういうちがいがすくないだろうが、なぜか「経営の専門家」という扱いにはならないのは、年功序列制度のせいにみえるからだろう。

しかし、たとえ欧米企業で、「経営の専門家」として入社して、その専門性が評価されなければ、容赦ないことになることはあまりいわれない。いい悪いではなく、それが、ジョブディスクリプションを基本とした採用と評価そして退職のプロセスなのである。

つまり、成功した経営者の本を書くようなひとは、この過程において瑕疵がないか、あるいは失敗の経験をその後活かせたひとでしかない。
日本におけるエリート・サラリーマンとは、まったくちがう体験をするようにできているとかんがえたほうがいい。

日本のサラリーマンとは、階段をじょじょにあがって、役員となり、その後も役付役員となって最後は、、、というようになっている。
しかし、かれらのジョブディスクリプションでは、MBA保持者なら、すぐに経営者としての職務がはじまるのである。

あたかも、日本のエリート・サラリーマンが、経営者(=役員)昇格をひとつのゴールとみるような目線はもっていない。
逆に、かれらにとっての出世とは、経営者としてのキャリアを積むことにある。

ここに、制度として、もっといえば思想としてのちがいがはっきりするのである。

80年代から90年代にかけて、日本がアメリカを凌駕したようにみえた経済力が、みるみるうちに逆転されてしまったのは、「経営者の経営力」という実力差がおおきいのだ。

成功した経営者の本には、かならず従業員をその気にさせた話がある。
まるで浪花節のようなことをいっているようでそうではない。
人心掌握とその気にさせる「仕組み」をつくっているのだ。

日本の経営者は、これを人事部にやらせている。
「共同体」だった時代にはつうじたが、会社が共同体でなくなりつつあるいまの日本企業で、つうじないのは経営者そのひとになってしまった。

こういうタイプが連綿とつづくのが、サラリーマン経営者しかでない日本企業の限界なのだと、経営者の本はおしえてくれる。

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