罪な「水戸黄門」

18世紀中旬の宝暦年間の実録小説『水戸黄門仁徳録』を起源として,その約百年後の幕末に『水戸黄門漫遊記』ができたというから,おおざっぱに300年ほども日本人に親しまれていることになる.

だから,「水戸黄門」と,さらに古い「忠臣蔵」の世界観は,かなり根深く日本人のアイデンティティーに影響をあたえているはずである.

しかし,これらの作品は,「講談」や「芝居」であって,現実からはずいぶんかけはなれたはなしになっている.作りばなしと現実が同じになってしまうというのが,国民という集団(以前なら「民族」という)規模でおきているとすると,これは「冗談」ではすまない.

悪代官と悪家老しかでてこない

しょせん「勧善懲悪」なのだから,いちいちほじくらなくてもいいではないか.とおもいつつも,悪代官がいても,悪いのは将軍家ではない.悪い家老がいても,悪いのは殿様ではない.という構造が気になるのだ.つまり,体制批判はあってはならない,という約束が,物語の背景である江戸時代の価値感をこえて,現代に倒錯して伝染しているなら,これはこれで「事件」だからだ.

まして,「水戸黄門」を江戸時代の価値感にとどめたら,幕閣でもない御三家の元藩主が,封建時代の真っ盛りにとある藩の内情を勝手に探って,その家臣らを手討ちにするという設定は,まったくありえないファンタジーである.

ところが,この「ファンタジー」が,おそるべき視聴率をたたきだして,世界最長のテレビドラマになった.これは,ファンタジーを圧倒的な国民が支持した証拠である.

世界に誇るわが国の「サブカルチャー」を,どういうわけか勘違いした役所がまたぞろお節介を焼いて,「クールジャパン戦略」なるもので大赤字を計上してしているが,アニメやコスプレ,人気アーティストの活躍のキーワード「ジャパニーズ・ファンタジー」のタネは,「水戸黄門」と「忠臣蔵」ではないか.

「押し込め」こそがお家のため

「忠臣蔵」では,史実としても物語のきっかけをつくった張本人がお殿様だが,討ち入りまでのドラマでは陰がうすい.「水戸黄門」では,登場するお殿様は,おなじく陰がうすいとはいえ,たいがい「暗愚」ということになっている.だから家老一味に実権を簒奪されているのだが,これに気づかず優雅にくらしている.これはこれで,体のいい「押し込め」である.

大名家の「藩主押し込め」は,かなり一般的だったようだ.ひどくなると,強制的に隠居させられて,座敷牢に押し込められたというから,本人の人生は悲惨のきわみである.ようは,「家」がつづけばよいのだ.もしもの疑いをご公儀から受けたらば,最悪はお取り潰しである.そうすれば,家臣一同もそろって失業=浪人の身におちる.太平の世に,戦闘集団である武士をあらたに採用する他家はないから,その恐怖は現代の企業倒産の比ではあるまい.

企業存続だけに汲々とする経営者と家臣団

江戸時代の大名家とおなじく,お家の存続=企業の存続,となると,その従業員である家臣団は,社長である殿様の意向を無視しだす.現場業務に精通しているという自負が,素人社長の介入をゆるさないからだ.これは,代々続く個人事業的企業でも,明治以来の名門大企業でも,似たようなことがおこる.

現代日本企業では,「社長押し込め」がおきている.

企業組織をどのように統治するのか?ということは,案外日本企業の苦手とする分野になった.バブル経済期の絶頂をさかいに,近年は「日本的経済システム」におおきな疑問が生まれてしまった.バブル絶頂前までは,「企業一家」としての「浪花節」が社内で通用していた.だから,理不尽なことも,社員感情のコントロールでうまく「ガス抜き」ができた.社内旅行や社員運動会などの各種行事が,それに色を添えたのだ.

「水戸黄門」の放送が終了したのは2011年.昨今,とんと浪花節は通用しなくなった.今年は,「忘年会がある会社はブラック」という話題まで出現した.

組織運営には,心理学がかかせない.急激に変化する人心を把握する心理学とは,企業哲学である.中国で,「稲盛ブーム」がいっこうに冷めない.京セラの稲盛哲学が,体制をこえて指示される理由を,日本人があらためてかんがえるのも来年につながる準備になるだろう.

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