美人は得をするものだけど

わが国の「フェミニスト」を代表する、上野千鶴子東大名誉教授が、「女性の外見をブス、美人というのは男性が女をランキングする傲慢だからダメ」だけれども、「男性の評価尺度は多元的で、一番強力なのは金力なのでイケメンというのはよい」と言ったことが物議を醸している。

国立大学で、一方的非難を浴びて、とうとう大学当局が「本学には関係ない」と学長名で突き放したのは、徳島大学名誉教授の大橋眞氏への「非難の同調」として支援者から非難されているけれど、マスコミは一貫して無視を決め込んでいる。

大橋教授は、同大学医学部でずっと「細菌免疫学」の講座を担当していて、定年退官して「名誉教授」を授与されたから、授与を決めた大学側が「無関係」という表明をするほど、無責任なことはない。
そうはいっても、いったん授与した「名誉教授」の称号を、ソ連みたくに「剥奪」もできないから「逃げる」しかないだろう。

細菌免疫学の専門家として、2年も経ったいまだに「病原体としてのコロナウィルスを確認した者がいない」という事実をもって、コロナ騒ぎを、「医学」あるいは「科学」とは別の、「社会現象」として最初に定義した科学的思考をする人物だ。

この意味で、上野千鶴子氏への「東大名誉教授」という称号があるのは、いまとなっては仕方がない。
すると、「現役」の教授として、よくも東京大学に在籍できたものだということになるのは、「名誉教授」の名誉が、「勤続年数」で与えられるからにちがいない。

すると、「社会科学分野」における教授職の「椅子」をひとつ独占したことにもなるので、勤続期間が長いという意味は、他の学者を同職から排除し続けることに「成功した」という意味でもある。

別にこんな深読みをしなくとも、東京大学は北京大学と「提携」していると正々堂々表明しているので、とっくに「レッドチーム」の大学なのだ。
総長以下、さぞや「晴れがましい」にちがいないから、上野氏が現役教授で何ら問題なく、その筋の思想を学生の脳に埋めこんだ成果を「顕彰」して、名誉教授の称号を差し出したのだろう。

だから、東大総長は、「本学とは関係ない」といわない。

上野氏の有名な発言に、「日本人はみんなで貧乏になろう」というものもあったのは、日本経済の衰退を「当然」とした、鋭い分析、のようでもあるけれど、ご本人は都内タワーマンションの上階にお住まいで、なお、高級外車を乗りまわしている日常が、これまた批判の対象となったものだ。

つまり、ぜんぶ「他人事」なのである。
この点が、「上野千鶴子」という「ブランド」を形成している。
すなわち、彼女は決して「フェミニスト」ではなくて、ただの「現状破壊」を目論む裕福な「活動家」なのだ。

さて、「ブス」とか「美人」という評価は、男性が女性にする「だけ」なのか?ということをわざわざかんがえると、あんがいと女性から女性を評価するのに、いちばん「きつい」ものではないのか?と思える。
このあたり、社会学の本筋は、どんな統計的な解析をしているのだろう?

しかも、女性の「それ」は、外見もさることながら、「内面」における評価も含むので、男は欺せても女は欺せないわよ、という強い意志まであるものだ。
これは、いわゆる女性を敵視する「ゲイ」の評価とはちがうことがあるけれども、「ゲイ」の目線の鋭さは、本質を衝く、という意味では確実性があるものだ。

こんなことからも、社会学者としての上野千鶴子教授の「研究成果」は、いったいどんな方法論を用いたものなのか?という基本的な疑問まで、素人が抱くのだから、やっぱり「活動家」だとしか評価できない。

一般的に、動物の世界では、「雄」が着飾る傾向があって、「雌」は地味である。
この意味で、人間には「倒錯」した感覚がある。

だから、男性が着飾るのは決して女性化しているのではなくて、「雄化」しているという「当然」がある。
すると、女性が着飾らないで、地味さを好むなら、それは男性化しているのではなくて「雌化」しているともいえる。

きわめてプリミティブなことだけど、そもそも論からすれば、「生殖」のための「構造」だといえるのが、「見た目」における「雌雄」のちがいとなっている。

すると、「民族」という区分の中で、日本人やその周辺の東アジアにおける、深刻な人口減少に、生命体としての「本能的対応」をしはじめたから、雄が着飾り、雌が地味になってきている、のだとも考えられる。

これに、多くが「美人」だと思う、「美人の定義」とは何か?を考えると、時代や地域によって異なるのは、その地の環境とか、栄養状態とかが影響するというのは納得できる話だ。

たとえば、中東アラブ世界なら、男女とも「豊満=デブ」が好まれたのは苛酷な環境と栄養状態の「豊富さ」をもって価値基準としたからだという。
それが最近では、「欧米的スリム」に取って代わりだした。
つい30年前なら、「スリム=貧弱さ=貧困層」という社会評価だったのだから、「隔世の感」がある。

太陽の力が弱い「北」の地域では、光の吸収のために肌が白くなって、寒気を緩めるラジエーターの役割をする鼻が高く(鼻腔の容積拡大)なった。
それで、穀倉地帯では、人口確保のために女性が美人に進化したという説がある。

ベラルーシ、ウクライナ、モルドバ、ポーランドあたりがその地域にあたるけど、年月による「血の交わり」で、中央アジア(シルクロード)には「絶世の美女」も現れる。
その一例が、楊貴妃で、隋帝国をたった二代で滅ぼすことにもなったのである。

ところが、美人なのに自分が美人だと認識しない(できない)ひとも国もある。
ベラルーシでは、ファッション・モデルが「国家資格」を要するのは、国家が美人を決めているからで、上野氏が卒倒しそうだけれど、このことのコメントは聞いたことがない。

そういえば、自分が美人だと気づかないひとの悲劇が小説や映画になっていた。
物語の舞台はイギリスだけど、主演のナスターシャ・キンスキー(ドイツ出身)の「美しさ」で有名な、『テス』は、監督、ロマン・ポランスキーもポーランド人であるところが、「ミソ」なのである。

名前に「スキー」が付くのは、祖先が「ポーランド貴族」の証拠なのだった。

  

しかして、容姿とは、人生体験や自己の内面からの感情も「変化」に作用するので、「心の美人」という見えないモノを見る「眼力」が、見るものに要求されて、その見るものの「心の美人」さが、感情としての結論をだすのである。

美人は得をするものだけど、「千差万別」、「蓼食う虫も好き好き」ということになって、他人からどうこう言われるものではない。

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