自民党が勝ってよかった?

「株価」がどう動くのか?は、誰にも「わからない」から、皆が平等な市場という「土俵」に資金を投資できる。
わからないことが、前提なのである。

それなので、全員がそれぞれに「予想」や「予測」をするしかない。

その予想方法や予測方法が、「理論」になったり、「販売」されたりするのは、「当たる確率」によっている。
だから大儲けしているひとが書く「私の投資法」が、ベストセラーになって、出版分野でも大儲けしている。

もちろん、読者がその投資法で失敗しても、「自己責任」だから、著者を訴えるひとはいない。
著者は著者で、ちゃんと「自己責任ですよ」と、しっかり著書に書き込んで自己防衛しているものだ。

まことに、お金はお金を呼び込む仕組みになっている。

今回の総選挙を総括する評論はたくさんある。
わたしが注目したいのは、「自民党が勝ってよかった」と安堵の声をあげている「財界トップ」の見識の「低さ」、だ。
一方で、そうはいっても「株価」は急上昇した。

この現象を、批判的に論じたい。

結論から先にいえば、財界人が「乞食(物もらい)」になったのに、それを「恥じない」という恥ずかしさを言いたいのだ。

わたしが若かった頃の財界は、「官」に対抗して、ちゃんとものを言っていた。
それが、「民業圧迫」という一言だった。

ついぞ聞かなくなったのは、民業が官からの補助金「争奪戦」で、それを「得たもの」が勝者だという卑しさが、株主にも認知されたからである。
まことに、民主主義が「腐る」とこうなるという、後世への反面教師になるようなことに心血を注いでいる。

簡単に言えば、乞食がイタリア製の高級生地のスーツを着て、社用車の後部座席にふんぞり返っているのだ。

その昔には、休日の日比谷公園には、わが国を代表する企業の社長が乞食の姿をして、行きゆく人を観察していたものだ。
ふつうの人たちの幸福な顔を見て、自社の社員と比較していた。

いまでこそ、「従業員満足度」なる指標ができたが、往時は社長が自分で確認していた。
乞食の姿をしたのは、ただの変装ではなくて、ふだんの自分が大企業の社長であることを「仮の姿」と自覚していたからである。

こんなトップが仕切る社業は発展した。
どんな時代でも、「業界トップ」には簡単にはなれない。
そんなリーダーをいただいた業界人は、一緒になって盛り上げて、業界自体の発展に寄与したのである。

そして、そんな空気の中に、「官」への対抗もあったのだ。

それは、「官」の「習性」ともいえる、勘違いのエリート意識から発する、ヘンテコな「オーラ」ともいえる「腐臭」であった。
もっといえば、根拠なき自信、であろう。
それは、「歴史」をも無視する傲慢ぶりをみせながら、自身の内輪では「有職故実」の前例主義を貫く、「ダブル・スタンダード」でもある。

典型は、官がみせる「民」への蔑みだ。
にもかかわらず、ダブル・スタンダードだから、平気に「民間の知恵を拝借」と言ってのける。
そこには、民間に知恵などありもしない、という自負がある。

しかしながら、まだ明治人の「官」はわかりやすかった。
西の「八幡製鉄所」にしても、東の「富岡製糸場」にしても、官営では大赤字であったものを、「民」へ払い下げたら黒字になって事業はその後100年も続くのである。

もちろん、不透明な払い下げ時の不正の匂いはプンプンするけど、「民」に引き渡したら「官」はあっさり手をひいた。
田中角栄内閣の時代に「完成」した、わが国の官僚機構は、もはや「あっさり」手を引くなんて「もったいない」ことはしない。

「民」が倒れるまで、そのうまみの汁を吸い尽くす。

そして、あたかも「ちっ」と舌打ちしながら、巨大な規模の企業なら「嫌々」の態度をみせながら、税金という他人のカネを注入して、さも自分たちのおかげとして、さらなる汁を吸うのである。
社会問題にならないような企業なら、あっさり見捨てて、経営陣の無能を叱るのだ。

ほとんどが法学部のエリートを気取るから、「会計学」には目もくれない。
それで、財務諸表もわからないのが「本当」なのだ。
それがこないだの、わが国を代表する「総合雑誌」で、財務次官が「告白」してしまったことだった。

ユーチューブには、国債と税金の国民から見た意味を、懇切丁寧に「簿記で解説」するひとがいる。
なるほど、国債は「政府の借金」ではあるけれど、国民には「資産」だ。
だから、増税をして政府の借金を返済する、とは、国民にはダブル・パンチなのだ。

もちろん、選挙に勝った政権は、これから「大型の景気対策」をするだろうから、「株価」が上がるという理屈は「正常」である。
けれども、その「重点配分」を「政府が決める」のだから、「争奪戦」になるのである。

しかして、それが「付加価値を生む」活動資金ではなく、「無駄金を遣う」方に重点があるから、特定企業にカネが回ることを意味する。
それが、「SDGs」の正体である。

どこにも、「持続性」なんてない。
政府の補助金が絶えたとき、SDGsも達成できず、やってくるのは「増税」ということになっている。

乞食になった財界人は、増税を望んでいる、という言うも等しい。
こんな愚か者たちを仰ぐ社員たちこそ、いい面の皮である。
自分の取り分はさておいて、従業員の給料を減らす努力をしながら、増税も望むとは。

日本が元気だった頃、こんな卑しい財界人はどこにもいなかった。
「減税」と、「官」の横暴に文句をいうのが、乞食の姿をした財界人だったのである。
そして、株主たちは、そうしたトップを尊敬して投資したのだ。

いまはもう昔になれない。

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