葬儀の「革命」とは?

わが国では、年々高まる「高齢化」で、年間の死亡者数は130万人を超えているから、月間にして10万人以上だ。
これに、新生児の数は年々減り続け、既に90万人も切っていて、その差が「人口減少」となって現れる。

高齢化の「ピーク」を作り出すのは、いつもの「「団塊の世代」(1947年~49年生まれ)で、この三年間の出生は、ざっと260万人/年超えである。

1947年:約268万人
1948年:約268万人
1949年:約270万人 この3年間の合計:806万人

すると、47年生まれのひとたちは今年75歳となって、あと10年もすると「平均寿命」に達することは、確実なのである。
ただし、おおかた「正規分布」するはずだから、早いひとも遅いひともいて、全員が平均寿命で亡くなるということはない。

もちろん、「厳密」には、これらのひとたちの「実態」が、平均寿命の計算にも影響するから、「そうはいえない」というひともいるだろうけど、おおよその一般論としては、「大間違い」とはいえないはずだ。

それにしても、わが国総人口のうちの6.4%という「かたまり」が、この3年間の「生まれ」に集中していることは、事実である。

「人生百年時代」という「甘言」も、過去のたとえば、70年代を「若者文化の時代」としていたのと同様に、その「巨大マーケット」に対する媚びへつらいである。

この世代の「時代」では、「金の卵」という、カネを生みだす「(若年かつ低賃金)労働力」として「重宝」されたのが常識で、中学卒での「集団就職」という「風習」すらあったのだ。
だから、高校進学だって「憧れ」で、大卒ともなれば文字どおり「エリート」だった。

よくよく意識しないといけないのは、当時のわが国は、「発展途上国」だったという歴史的事実なのである。

その記念碑が、井沢八郎が歌う『あゝ上野駅』だし、ノスタルジックなファンタジー『ALWAYS 三丁目の夕日』であって、自身がなれっこない「高校生」への憧れは「5回(1949年・1957年・1963年・1975年・1988年)」も作られた『青い山脈』で「疑似体験」したのだった。

集団就職が終了しても、夏休みになると「家出」した少年少女を「補導」するために、警察官が特別配置されたのも、「上野駅」であった。
このことも、息の長い「歌」になった理由だろう。

ここが、「東京駅」との決定的なちがいなのだけど、東京駅にも集団就職で上京したひとはたくさんいただろうし、「家出」だってあったはずだろうに。

   

しかし、メタファーとしての「上野駅」が重要なのであった。
それなのに、ただの「通過駅」にした、JRの「文化破壊」こそ、これから記述することの「大問題」の一部なのである。

この時代は、どの家庭でも、「人寄せ」があって、狭くても座敷で宴会をやっていた。
「冠婚葬祭」だって、自宅でやるのがふつうだったけど、都会での婚礼が先に「会館」や「ホテル」になったのは、一堂に会する人数が自宅にとうてい収容できないという理由もあったからである。

それで、一堂に会する人数が親戚縁者だけでよくて、それ以外は道路端のテントでいいとした「葬祭」は、「畳の上で死にたい」という本人の「遺志」もあって、自宅でおこなったものである。
ここで活躍したのが、町内会の婦人会で、その家の台所を仕切るだけでなく、分担してつくった料理を提供したものだった。

これに、近所の魚屋や寿司屋、それに酒屋が加わって、町内の大イベントになっていた。
そしてそれが、「お互い様」でもあったのだ。

とっくに「病院で死ぬ」ことがふつうになったのは、酸素吸入とか点滴やらの各種器機とか薬剤を自宅にレンタルする面倒がそうさせる。
だから、「終末医療」という覚悟があってのことに限定されるので、「末期癌」は「幸せな死に方」になってきている。

「コロナ禍」という「人為」で、とうとう「面会禁止」という、なんでも「禁止」の新しい常識ができた。
人生の最後の時を過ごす、ということが、十分に制限される、という事態になったのである。

五類にしない、という人為も、本人がPCR検査陽性者ならそのまま袋詰めにされてしまうので、遺族は「死に顔」を見ることさえもできない。
むかしは、危篤状態になったら、家族が交代で病室に泊まり込んで「見守った」もので、これを病院も許したのだった。

その意味で、本人の人生への敬意と、命への尊厳を重視していたのは、ずいぶん昔のことになって、「いまは口先だけ」のきれいごとですますことになったのである。

つまりは、「命は大切」というひとほど命を大切にしていなくて、「唯物」的な考え方の「隠語」になったといえる。
その「唯物」は、「materialism」(マテリアリズム)であるから、日本人がかんがえる「物」とは概念が異なって、「材料」から「原子」につながる「物質」の「物」なので注意したい。

そして、決定的に残念なのは、「宗教界」なのである。

良くも悪くも、わが国最大の宗教は、仏教、ということになっているけど、これを、「葬式仏教」といって憚らない巨大宗派の管長がいた。
「科学」による「宗教弾圧」に、キリスト教が最初に「犠牲」になったのは、それ以前の「悪行」からの反動だった。

なんでも「欧米が上で日本が下」という、「思想」が、キリスト教の無様に真似て、伝統的な宗教を破壊したかに見える。
ほんとうは、あまりにもすさまじかった「一向宗」の反乱に懲りた、家康がつくった「檀家制度」が、宗教家を「安逸」の生活に押し込んだのである。

以来、400年。
「コロナ退散」を祈祷も祈願もできないほどに、宗教は堕落し、わが国は「ホッブス」がいう「唯物」を信じるに至った。
これは、「科学信仰」でもある。

それが、「感染予防」という名目で人寄せしない「葬儀」になって、「葬送の儀式」そのものが陳腐化しても、対抗できる能力を失ってしまった。
通夜・告別式というセットから、「通夜」が削除されて、「一日葬」という簡素が費用節約の本音を隠して普及しているのである。

もちろん、「家族葬」という名目で、故人の縁故あるひとも「呼ばない」で済むのは、近所づきあいの衰退もさることながら、寿命が延びすぎて、社会的つながりの希薄さが、これを可能にしているし、なによりも家族自体が「簡素化」したのだ。

すなわち、すべてが「分断」という「一個集中」になっていて、みごとな「(アトム化)革命」が進行していたものを、まさに「コロナの人為」がこれにトドメを刺して完成させようとしているのである。

ここに、なぜ「五類」にしないのか?という疑問の答がある。
とっくに「科学」を利用した、「社会操作」なのである、と。

そんな「変化」を気にせずに、「戒名代」やら「法事」のお布施をむしりとって、宗教が成りたつのも限界に近づいてきていると考える。
超高齢化による「葬儀」の回数は「空前」であっても、このことが却って宗教を「衰退させる」原因になりそうだ。

「先に死んだひとが羨ましくなるほどの悲惨がやってくる」、という「預言」をするひとがいて、「A.I.」が新しい信仰対象になるというひともいるのだけれど、唯物的に「恐怖」が支配しても、「宗教の時代」がやってくることはなさそうだとみる。

そのうち、「葬式」すらやらない社会になるやもしれぬ。

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