訓練された「市民」がいない

平和な時代に平和に暮らしていると、市民としての訓練をどこにも受ける機会がない。
家庭内、そして学校生活から、社会に出ても、誰も訓練してくれないのだ。
それは、意識的に訓練を受けたひとが皆無なので、訓練教官をやるひとも、できるひとも、やろうというひともいない。

この点、しっかりしているのは社会主義者のみなさんで、こちらは訓練を受けて、立派な「プロ市民」へと成長する。
意識的に訓練をするひとと、意識的に訓練を受けるひとがいる。
それが、「一生」にわたるので、いつかはちゃんと「次世代」も訓練して絶やさない努力がはらわれている。

ただし、一世を風靡した70年安保の炎も、全共闘世代というひとたちが高齢化して、ちょっと前の「アベガー」とか、リュックに「安倍政治を許さない」と書いたステッカーをつけて静かにあるいていたけれど、安倍退陣で、影をひそめてしまったのが残念だ。

このひとたちの子どもや孫たちは、はたして引き継いでいるのかと心配になる。
恥を恥とも思わずに、行動する勇気には敬服するのだ。
こうしたひとたちすらいなくなるのは、とてもよくない危険なことである。

わたしは、全共闘世代の下で、ビートルズにも間に合わなかった、哀しき「ウルトラマン世代」である。
なので、連日生中継された、浅間山荘事件の異常に、おののいた方である。
学習塾でさえも、授業中にラジオの中継をつけていた。

中学も3年生になったら、ベイ・シティ・ローラーズが流行ったけれど、こんどは自分がすこしおとなになっていて、同級生たちも盛り上がってはおらず、もっぱら1年生が興奮していた。
あんがいと、世代間のちがいを認識した最初だったのだ。

そんなわけで、会社員になって驚いたのが、『ウルトラマン研究序説』(1991年)だった。
わざと「序説」で終了すると書いているのも潔かった。
ウルトラマンと敵対する怪獣(宇宙生物)たちの生物学的研究、それに科特隊(科学特捜隊)のモチベーションなど組織研究や正義についての哲学。

サブタイトルには、「若手学者25人がまじめ分析」とある。
もう30年も前の「若手」のことである。
いまならきっと、中堅も超えて「大御所」になっているにちがいない。

何回か書いたけど、学者というのは万国共通で、勉強エリートのひとたちがなる「職業」である。
各国で、入試や卒業についての基準はことなるけれども、学部学生から大学院に進学して、そのまま研究室にはいる「ふつう」がある。

だから、一般的な学者は、職業(ビジネス)人としての経験がない。
それにわが国の場合、高級官僚の「無謬性」を担保するための用意だてとして、官費で「博士号」をとらせる習慣が役所にある。
明治の頃のやり方を、令和になってもやっている。

これが、各大学に官僚出身の教員が採用される素地でもある。
もちろん、大学経営側の思惑は、文科省をふくめた役所とのパイプづくりという下心もあってのことだ。

つまり、突きつめると、学生のため、ではない。
あるとすれば、優秀と見越した学生を、自分の出身母体である役所に採用させることだろうけど、ほんとうに本人はそれでいいのか?
もちろん、公務員試験に受からないと、その先はないけど。

興味深いのは、日本の国家公務員は、最初に入省した「本省」に忠実となる訓練は受けるけど、国家に忠実となるような訓練は受けない。
役人人生には、「転勤」がつきものだけど、霞ヶ関のビル間を、「出向」といって転勤することだってある。

「◯◯省」から「✕✕省」や、「△△委員会」へ出向するのだ。
最強の出向先は、「内閣法制局」で、参事官以上の幹部ポストなら連続5年以上を勤めると、退官後「弁護士資格」が与えられることになっている。
司法試験を受けないで日本の弁護士になるのは、大学の法学教授をやる道と二通りしかない。

なお、外務省には、最高裁判事(国際法)になる道があって、たいがいが「条約局長」経験者から選ばれることになっている。
だから、事務次官からアメリカ大使になるばかりが出世ではない。

こうしたことをよくよくみれば、官界の世間離れが尋常ではないことだけがわかるのだ。
つまり、彼らは彼らとして、市民としての訓練をその職業人生で受けることはない、という事実である。

すると、学者と官界がダメとなれば、政界もあやしくなる。

なにしろ、投票する国民も、市民としての訓練を受けることがないからだ。
あえていえば、「他人に迷惑をかけてはいけない」という、あたりさわりのないことに落ち着いて、リスクを避けることだけが行動基準になってしまった。

それで、コンプライアンスといういい方で、「法令遵守」(「順守」とも書く)を最重要事項にしたから、意思表明もできなくなった。

わが国の当代最強ともいわれる、元検事にして弁護士、郷原信郎氏のいまとなってはやや古い事例だが、本質的な議論を堪能できる一冊である。

これを読んで思うのは、法哲学と経済哲学、経済哲学と社会哲学という個々ではなくて、「面」として総合的にかんがえる訓練をされていない、という実感なのである。
これこそが、現代社会を生きる市民としての訓練のカリキュラムではないのか、と。

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