資本家は資本主義者ではない

資本主義とはなにか?
資本主義はほんとうに存在するのか?

前にも書いた、アイン・ランドがひとつの解答をだしている。
それは、「人類は一度も資本主義を経験していない」である。
だから、アイン・ランドは、「資本主義は未来のシステムだ」と定義した。

結論から先に書けば、「資本主義」なる「用語」は、マルクスの「造語」なのだと、ハイエクが指摘した事実がある(1963年「Capitalism and Historians」University of Chicago)。

つまり、マルクスは、弁証法の結論たる「共産主義・全体主義」の対立軸に、資本主義という「概念を発明」して置いただけなのだ、と。

資本主義は、ありもしない「共産主義・全体主義」の、さらにありもしない、たんなる「仮定」にすぎない。

いわゆる「保守派」とかというひとたちが、共産主義・全体主義を批判するとき、その「幻影」を指摘してきたけれども、資本主義も、もっと曖昧な「幻影」だということに気づいていないで、資本主義社会の存在を前提に共産主義・全体主義を批判するから、いつまでたっても「トドメ」を刺せないのである。

べつに、共産主義・全体主義を資本主義とで「差し違えろ」というのではなくて、どちらも「存在しない幻影」だから、差し違えることすらできないのである。

あるのは、虚無にして空疎だ。

こうしてみると、資本主義成立の過程と証拠が、いまだに確定していない!驚きに満ちた「真実」の理由がわかる。
存在しない幻影が成立した過程とか、証拠があろうはずがないからである。

かのマックス・ウェーバーの代表作にして、「資本主義成立の決定版」といわれてきた、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』も、新進気鋭の日本人研究者によって、「論破」されてあらたな「論争」になっているのは結構なことだ。

はたして、マックス・ウェーバーは、「資本主義」を論証した画期といえるのか?が、論争になったのである。
それでもって、論争はずっと続いている。

残念ながら、上述したように、資本主義はマルクスが発明した「幻影」のひとつにすぎない、となれば、なんだか「ご苦労なこと」なのである。

すると、いま、われわれが生きている時代は?
産業革命と英国の発展はなんだったのか?

それには、大塚久雄が説明した、「前資本」とか「前期資本」という、中世までの人類が過ごしていた「主義のつかない時代」が、自動延長されているとかんがえればいい。

つまり、わたしは、前資本の状態に、たまたま科学技術が発展したのをもって、「資本主義」だと勘違いしたばかりか、マルクスの論に乗っかって、なんとなく資本主義なのだと、思いこんでいたのだとおもうのである。

ちなみに、前資本の状態とは、詐欺・掠奪・冒険があたりまえの時代で、「儲けた者勝ち」という常識がある世界をいう。
ヨーロッパ文明の先駆けをした、アラブの時代の『アラビアン・ナイト』における物語は、前資本の典型的な話だし、日本の「紀伊国屋文左衛門」もおなじだ。

ただし、わたし個人は、マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理」にある、まじめに働いていたら蓄財になって、困った仲間からの出資の求めに応じたら、もっと儲かったことが、順番を逆にして、儲けるために出資して目的通り儲かるようになった、という説明には納得している。

これは、現代のほとんどの経営者が、「損益計算書」をにらんでいて発想することとおなじだからだ。

創業者ならわかる、最初に出資ありきから、たまたま「計算書」の書式になっている「損益計算書」をみていると、あたかも、「売上」が先で、「経費」が後から発生し、それで「利益(損失)」がでているように勘違いする。

すべての事業は、「経費=出資」が先で、その結果が「売上」となって、残ったのが「利益(損失)」だという正しい順番を忘れてしまうのである。
すると、資本主義がもしも「ある」とすれば、それは、「創業時からのしばらくの間」であって、数期も経てば、前資本になってしまうのである。

このことを、ドラッカーは「利益は存在しない」といった。
しかもこの大御所は、「期間損益」を否定していたのである。
会計学の1年生にも、いかようにも化粧ができるといって批判した。

すなわち、ドラッカーを相手に世人が大御所と呼んだのは、世人が資本主義をぜんぜん理解していないから、大御所になったのである。
もし、投資家たる資本家が、儲けるために出資するのではなく、信頼できる仲間をたすけるために出資するなら、それが資本主義なのである。

あるいは、人類に役に立つ、物やサービスを提供する、というごく小さな一点にだけ、資本主義が存在できる場所がある。

これを、アイン・ランドは、「資本主義は道徳的だ」と喝破したのであった。
ゆえに、資本主義は未来のシステムになる。

すなわち、儲けるためだけ(儲け主義)という、目的自体が非道徳だといわれて、そしてそれが資本主義批判の「王道」になったのは、マルクスの論に乗っているばかりか、そもそも資本主義は儲け主義を内包しないからである。

これこそが、「幻影」という理由で、儲けることを善とする現代も、あいかわらず前資本のままなのだとわかるのである。
これは、テクノロジーの発展とは関係のない、人々の「道徳」に依存するから、とてつもなく成立が困難な社会体制のことでもある。

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