都市のバスは一律料金なのに

どういう加減かしらないが、距離だけで決まっている感じがしないのは、ちょっと郊外にいくと「あたる」ことがある、変動料金制のバスである。
なんだか乗った感じがしない距離なのに、割高感があるときがある。

わたしの住む横浜市には、まだ「市交通局」があって、市営バスと市営地下鉄が走っている。

路線バスで県下最長の走行距離をほこる、神奈川中央交通は、県ごとに認可が下りる『1940年体制』のまま80年も経過した「規制」のなかで奮闘している。

これは、各県に行けばかならずあるバス会社とおなじ構図で、地方銀行業界だってこれにならっている。
けれども、各県の行政にまかせるのではなく、国の出先が管轄するから、県庁よりも国の「合同庁舎」がにらみをきかせているのだ。

そんなわけで、横浜市の路線バスは、私鉄系と市営があって、バス運転手さんの給与にまつわる「ヒエラルキー」が、ピラミッド型に形成されているという。

バス事業単体ではどうにもこうにもいかなくて、とうとう小田急傘下になって、さらに子会社に分社化しているのが神奈川中央交通さんだ。
どうやら、バス運転手さんの給与水準がいちばん低いのではないか?といううわさがたえない。

それで、運転手さんたちの転職によるキャリアアップは、何回かの転職をつうじて、横浜市交通局の運転手さんになることだという。
はたして、横浜市議会議員でこれを議論するひともなく、「同一労働同一賃金」だけがむなしくひびく。

それよりも、どうして、横浜市営バスの路線が、路線ごとにでもオークションにかけられないのだろう?
戦後、庶民の公共交通を支えてきた「功績」は認めつつ、いつまでも「市営」である必要がどこまであるのか?

いまさらだが、さっさと民営化すべきである。

しかし、いまさら、なのは、ただ民営化すればよい、というかつての粗っぽい議論をしたいのではない。
どうして、かつての「民営化」が「粗っぽい」のか?といえば、「思想が薄っぺら」だったからである。

この「薄っぺら」さは、民営化すれば利用客が喜ぶことしかしない、ではなくて、「赤字が減る」だったのだ。
偉くても、企業経営をしらないひとたちが議論したのである。
ただし、旧制度からの脱却「だけ」でも大変だったのは、理解するけど。

わかりやすいのが「JR東」である。
この会社は、黒字である。
だが、鉄道会社として黒字になった、とかんがえてはいけないし、もちろん「民営化したから」黒字になったのでもない。

「鉄道法」の呪縛から解放されたから、黒字になったのだ。

鉄道法は、鉄道事業以外を認めなかった。
民間の鉄道会社は、鉄道事業以外の事業を別会社でやった。
この成功例が、関東では「東急」、関西では「阪急」である。
簡単にいえば、「国鉄」に東急や阪急のまねができなかったのである。

それが「JR」になってできたのは、「心機一転」したからである。

つまり、「気」の持ちようなのだ。
「バカな」というひとは、人間をしらない。
「人間は考える葦である。」という名言の名言たる理由を述べよ、といわれてなんとこたえるか?

キーワードは「考える」だ。
つまり、人間とは、考えたこと「しかしない」動物なのだ。
逆に、考えていないことは、やらないし、できないのである。

動物の場合、はたしてどこまで「考えた」結果の行動なのか?
むしろ「反応=本能ともいう」による「行動」と、「思考」による行動の区別がつかない。
だから、愛するわが家のペットの行動すら、よくわからないのである。

それで、ペットの心理をつかむプロがいて、うそみたいに問題行動を原因から解消してくれる。
ただし、飼い主がこれを理解しないままなら、元の木阿弥なのである。なぜか?問題行動の原因が飼い主の接し方がまずいからである。

しかし、「人間」はちがう。
かならず、思いついたり考えてみた結果でないと、そもそも「筋肉すら」動かないから行動にならない。

そんな人間が集まっているのが、なんであれ「組織」を形成するので、そこにいる人間の「気が変わる」と、とんでもない変化をすることができるのである。

運輸局の「気」が変わることを望んでも仕方がない。
かれらにとっては、「法」が変わらないとなにもできない。
しかし、「法」をかれらの都合とはちがう方向に変えられると困るので、なるべくそうならないように議員を養育するのである。

ずっと前、日本が貧しかったころ、市内のバスはとっても便利だった。
しかも、最大の路線距離があった市営バスでも、車掌さんにいえば車内で「乗り換え券」を発行してくれた。
これをもっていれば、市バス路線内なら乗り換え「自由」で、余計な料金はかからなかった。

車掌さんがいなくなっても、電子的な手法でバスに乗れるのに、乗り換えもできないで何度でも「初乗り一律運賃をとる」のは、「市内一律運賃」の看板とちがう。
豊かになったら、良心が抜けたのはどういうことか?

世の中を便利にする政治をやめて、不便になることしかしない。
「進歩」とは「不便」である。
これは、全体主義特有の「ダブルスピーク(二重語法)」のことだ。

民主主義をいいながら、ぜんぜん「民主」になっていないのは、「看板に偽りあり」の典型である。

こんなことを、バスに乗るたびにおもう。
「老人パス」だけが、「一律運賃」の最後の砦になっている。

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