野菜を買うとプラゴミがふえる

海洋生物にもプラゴミの悪影響が報告されてきている.
なかでも深刻なのは,「マイクロプラスチック」や「ナノプラスチック」で,食物連鎖からヒトへも影響がでているという.
歯磨き粉の研磨剤にもふくまれていて,それが海洋に流れ出るというから,知らないうちに海を汚している.

ひとは見えないモノを「なかった」ことにする傾向がある.
それで,たまにまじまじと見つめると,妙にがてんするものだ.

「一族郎党」で一緒に住む生活など,とっくに歴史のかなたにおいやって,いつの間にか三代以上の同居すら「大家族」といわれるようになってしまった.
だから,順番どおりなら,同居の祖父母の「死」に直面する経験は,孫にはあんがい希になって,お葬式がイベント化する.

十年前の映画「おくりびと」がヒットし日本アカデミー賞を受賞したのは,むしろ「遅い」感もあった.
おなじ意味で,日本版タイトル「おみおくりの作法」(2013年)は,より突っ込んだ内容になっている.

人糞を堆肥にする,というのは日本の風習で,畜産がさかんだったヨーロッパにはみられない.
彼らは,川に流すのがふつうだった.
日本の田舎にいけばたいがいあった「肥だめ」は,発酵過程をとおして「発熱消毒」もかねたから,おそろしく科学的な設備で,完成したものは水でうすめて使用したが,なんと千年の歴史がある.
納豆や醤油・味噌だけが,わが国の発酵文化ではない.

ところが,「水洗」というヨーロッパ文化に席巻されて,同時に「化学肥料」の普及もあって,「下肥」は絶滅過程に入っている.
それで,レバーを押せば水とともに消えてなくなるから,「なかった」ことになった.
だから,「下水処理場」は,現代文明をささえる重要施設にまちがいなく,小中学校の生徒にはかならず見学させるとよい.
消えてなくなったのではないから,「なかった」ことにはならないことが学べる.

「地球環境」などという壮大な環境よりも,身近な生活環境がどのようにして人為的に「作られている」か?は,おとなだって知りたいだろう.
その「下水処理場」すら,電気がなければ稼働しない.
平凡な日常という,現代文明は,強固なようでじつは脆弱だ.

石油という便利な物質は,エネルギー資源であると同時に材料資源でもある.
燃料として燃やせば,電気ができたり自動車が動く.
一方で,さまざまな化学反応から「プラスチック」や「タンパク質」までつくることができる.
燃料としての石油が,ほかの方法に置き換えられても,材料としての石油がほかの物質に置き換えられるかといえば,素人でもそうはいかないとわかる.

現代文明が石油に依存しているのは,以上のことで確認できる.

「現職で将来ある科学者だったら絶対に発言しない」といって「発言した」のは,武田邦彦教授である.研究費の配分を確実にしなければ,科学者としてやりたい研究ができない.その研究費は,国から支給されるので,国にさからったことを発言をしない.つまり,「沈黙は金」なのだ.
自分は研究者としては「引退」し,いまは「教育者」に専念すればよいから,科学をもとに発言するのだ,という意味である.

「リサイクル幻想」(文春新書,2000年)は,記憶に残る武田教授の著書である.
なぜかというと,1975年の「海洋投棄に関するロンドン条約」(日本は80年に批准)の,あたらしい議定書が96年に結ばれて,まさに海洋投棄の全面禁止となった時代背景があったからだ.

当時勤務していたホテルの排水溝にたまった汚物は,海洋投入処分の対象だったから,この議定書による対策を研究していた.それは,陸上処理の方法の模索で,費用負担増の予測が主だった.
そんなこともあって,事務からのふつうゴミ,調理場からの生ゴミについても,対策の検討をしていたのだ.

この本が出版されて18年.
武田教授の発言はとまらないが,なかなか教授のいう「科学」が,浸透していない.
「科学」よりも「制度」を優先させる体質が変わらないからだろう.
その「制度」が「利権」と直結するから,絶望的なのだ.

野菜を買うとプラゴミがふえる.
消費者は,そろそろ声をあげるべきではないか?

鳴り物入りではじまった「民泊」だが,オーナーにとって最大の問題が「ゴミ分別」なのである.
外国人が「分別できない」.
また,都区部でも分別のルールがちがうから,おなじオーナーの「民泊」でも「区」がちがうと,リピートした外国人客が「混乱」するのだ.

そうして,マンションの管理組合や自治会から目の敵にされる.

「科学」を基準に「制度」にしないツケでもある.

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