靴はひとを選ぶ

日本人が靴を履き始めて、150年あまり。
ほんとうは、縄文時代から靴を履いていたのに、どうして廃れたのか?については、高温多湿と家の中で靴を脱ぐ習慣の二つが原因だといわれている。
それで、草履や下駄が主流になったと。

ならば、どうして家の中で靴を脱いだのか?
きれい好きもあるだろうけど、「玄関」という「結界」を設けたことに、宗教上の強い理由があるかとおもう。
もちろん、ずっと靴を履いていたら、足が蒸れるのは高温多湿ゆえである。

「結界」とは、外と内の区別でもある。

魔物がひそむ危険な外に対して、安全な内(「家」を「うち」と読む)は、まさに「家内安全祈願」の通りで、その家内安全を取り仕切るひとが、奥を支配する「主婦」たる人物であったから、外からは「奥様」、内からは「家内」になった。

だから、外部のひとは、相手の妻を「あなたの家内」とはいわないで、「奥さん」というし、いわれた側は「うちの奥さん」とかいって、二重表現をしたりするのは、「神(様)さん」を畏れるのとおなじに「恐妻家」を自称するのである。

まあ、そんなわけで、靴を履かない時代=時間が長かったのが、日本人なのである。

一方で深い森林のなかで狩猟生活をしていた、ゲルマン人は、靴を履かないと行動できない縄文人とおなじであったけど、高温多湿ではないからずっと靴を履いていたのは、他部族からの襲撃に備えるためでもあった。

縄文人が大規模な戦争をした痕跡を残していないのは、どうやらそんなに食べ物に困っていなかったかららしい。
青森の三内丸山遺跡には、低木化の品種改良された栗林が出土している。
しかし、ゲルマン人はそうはいかず、ヨーロッパの寒さは過酷であった。

それでもって、地球寒冷化によって、「大移動」して、ローマと激突した。
靴を履いているゲルマン人は、サンダルのローマ人よりずっと強かったので、「世界史」が変わったのである。

この意味で、「ドイツ靴」には、森の生活からの驚くほどの長い時間をかけた「伝統」があって、たいがいのドイツの靴メーカーは「整形外科医」が創業者になっている。
「足の骨格」の専門家が靴を作っているのだ。

では、日本ではどうなのか?
残念ながら、靴メーカーは、例によって例のごとく、「大量生産」に走った歴史から抜け出せていない。

それにしても、どうして「鼻緒」の履物ばかりだったのか?
鼻緒がくい込んで痛くなかったのか?
「編む」技術に優れた「ワラジ」さえも、前は「鼻緒」で、後はかかとを止められるようになっている。

足の甲を覆うサンダル方式にしなかった理由はなんだろうか?

もしや「ナンバ歩き」か?
なぜ「ナンバ」というのかも、「難儀な場所」とかいろいろあるらしい。
呼び方はどうであれ、「歩き方」としては、なんと「二軸歩行法」なのである。

「股関節」というよりも、骨盤を利用する。
足の繰り出しと手の振りが「おなじ」という解説があるけれど、「相撲」のような動きとはちがう。

たしかに、右足を出すときに、右手も動かすのだけれども、どちらかというと、「体幹」に沿ったイメージなので、右手を「前に振る」よりも上下運動させて、上から下に動かすのだ。
だから、歩行していて身体の正面が揺れない。

さらに、腰を落とした感じとなる。

これは、鍬を振る農作業では、ごく「ふつう」の動きだという。
腕だけでは、疲労がたまるので、「腰を入れる」。
そのとき、身体は正面を保って左右にブレることはない。

忍者ならずとも、たとえば、『東海道中膝栗毛』の弥次喜多コンビの「脚力」を意識して読むと、お江戸日本橋を早朝に出立したふたりは、「のんびり」と「寄り道」しながら歩いているはずなのに、初日の泊まりは、「保土ケ谷」なのだ。

健脚なひとなら、戸塚泊まりが当たり前だったという。

東海道に近い、都営浅草線の営業距離は、日本橋-泉岳寺で6.1㎞。
泉岳寺-横浜が、京急で23.4㎞。
横浜からJR横須賀線で、保土ケ谷が3.0㎞なので、合計32.5㎞。
12時間かかったとして、平均2.7㎞/hだ。

ちなみに、保土ケ谷-戸塚間は同じくJR横須賀線の営業距離で9.1㎞ある。
すると、32.5+9.1=41.6㎞。
12時間で、約3.4㎞/hになる。

鉄道路線の距離だから、実際の「東海道」は、距離的にもっとある。
すると、寄り道ばかりの弥次喜多コンビにしても、歩くのが速くないか?
ましてや、当時の「健脚」なひとをや。

スニーカーもなにもなく、足袋とワラジでの踏破スピードなのだ。
プロの「飛脚」に至っては、現代人の想像外になる。

やっぱり、身体の使い方が、「ナンバ」なのだ。
「ナンバ」のもう一つの特徴が「ベタ足」で、地面を「蹴る」動作がないから、鼻緒がくい込むようなことにはならないし、かかとも擦って血豆にもならない。

そんなわけで、日本の靴がドイツのように「発達しなかった」のは、単に大量生産だけでなく、どうやら日本人の歩き方が、靴を選ばないでよかったのではないのか?

しかし、昭和初期にはもうそんな歩き方はできなくなったから、科学的に分析・設計された「高価」なスニーカーを履かないと、歩けないようになってしまった。

すると、ひとが靴を選ぶのではなくて、靴がひとを選ぶようになっているのだ。

あわない靴で足を痛めるのは、なにも女性に限らない。
かくいうわたしも、若いときに履いていた靴を、痛みをこらえてむりやり履いていたら、右足が軽い外反母趾になってしまったのである。

これを、熱心な靴屋さんで、左右の足のサイズがちがっていて左が大きいために右足が靴の中で動いたことが原因ではないかと指摘された。
すると、そのまた原因が、体幹の左右のズレで、骨盤に問題があるかもしれないから整体院にいくことを勧められた。

それで、この靴屋さん自慢の柔らかい鹿革の靴はあわないと、販売してもらえなかったのである。
革の加工は奈良県宇陀市、製靴は大和郡山市の逸品だった。

残念。

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