久しぶりの長距離「出張」で、京都に行ってきた。
すいていると思われる、列車番号が「200番台」の、JR東海(東京-新大阪)区間だけを走る新幹線「のぞみ号」は、やっぱり空いていた。
ガラガラのおなじ車内で、京都で降りたのは6人だった。
わたし以外は、観光目的に見えたので今どきを思えば妙に珍しかった。
暑いこともあるけど、ダラダラの緊急事態宣言で人出が少ない。
体温を超えるのは、東京も名古屋もふつうになったから、盆地の京都の夏が特別に暑いのではないのだが。
驚いたのは「祇園界隈」で、四条通りのアーケード商店街が、シャッター通りになっていたことだ。
四条通りが東で突き当たるのは、八坂神社。
この正面が「西門」になっているのは、東西南北・京都のマス目状の形状からすれば当たり前だけど、「神社」としての、「正門」は「南」なのだから、この門は正門ではないのである。
このことは、「仏教寺院」もおなじだから「南大門」ということになっているし、都の入口にあたる「羅城門」だって、南に向いているのだ。
よって、四条通りと交わるT字路は東大路通りだけど、その1本さらに東側の道(下川原通)が、八坂神社の正門(南楼門)がある表参道になっている。
ここを歩くひとがいないので文字通り「閑散」としていて、なんだか、人類滅亡後の街のようなのだ。
ついこの前まで、予約が取れず盛況を誇っていた宿が軒並み「廃業」しているという。
営業自粛がなかば強制になっても、飲食店にはまだ休業補償はあるけれど、宿泊業は保障がない。
祇園やらの花街のひとたちは、お茶屋に派遣される無店舗営業だからどうなっているのか。
花見小路では、襟が黄色の新人舞妓が、お付きがかざす日傘の下を歩いていたのが印象的だ。
昼からお座敷をやっているのだろう。
炎天下、あの着衣での徒歩移動は、それだけで重労働としてその顔にあらわれていた。
きれいな絹のおべべに汗染みができそうだし、襦袢の下は不快極まりないにちがいない。
それでも、京都の「いけず」なひとたちは、「観光公害」がやわらんで「よかった」と言っている。
これが、「いけず」なのは、「本音とちがう」からである。
内心は、「冷や汗」が吹き出しているはずなのだ。
そこまでしても「強がる」わかりやすさが、「いけず」なのである。
観光立国の不可能とは、いまの京都を観察すればよい。
「公害」だといえるほどに、内外の観光客が殺到していた頃が、もはや「懐かしく」かつ「よきことだった」と認識しだした。
あの「日常」こそが、「夢幻(ゆめまぼろし)の如く」になった今、実は「当たり前」ではないことを「当たり前」と思いこんでいただけなのだと、ある意味「正気」を取り戻している。
地元の京都人は「お土産物」なんて買うはずがない。
だから、京土産店の閉店は、当たり前の日常になったのであるけれど、衰退のすっぴんが街を意気消沈させている。
「観光産業」とは、かくも脆弱なものなのだから、「基幹産業」にはならないし、「してはいけない」のである。
ポスト・コロナの京都人は、この意味でグレードアップした「いけず」になれば、学習効果というものだ。
しかし、羹に懲りて膾を吹くこともあり得るから、結論を急ぐことはできない。
いつの時代でも、農地がないのが「都」の特徴である。
いわゆる、「都市」としての機能でいえば、生活物資の「消費地」としての顔と、流通と二次加工品生産の顔との二つがあっても「食糧生産」のための土地はない。
これが、「住居兼店舗」とか、「住居兼家内工場」になったのである。
その意味で、京都市内の地場産業が、織物や染め物、焼き物や小物などの軽工業と、これらを販売した呉服屋と問屋だったのには、小細工はない。
購買層は、貴族を中心にした朝廷(中央政府)と文化を消費できた旦那衆だった。
だから、貴族が消えて、旦那が絶えたら、急速に縮小をはじめたのだった。
この「穴」を補ったのが、内外からの観光客だった。
それでも伝統的地場産業の衰退が止まらないのは、購買層の変化に対応できなかったからである。
しかし、その対応の困難さは、一言では表現できない。
なぜなら、内外の観光客の正体こそが、「工業社会における大衆」だったからである。
すなわち、けっしてかつての貴族と旦那衆ではなかったのだ。
しかも、貴族と旦那衆を相手に、1000年間以上も商売をしてきた「日常」があった。
だから、すぐさま「内外の大衆相手」という、想定顧客の転換には驚くほどの困難が伴うのである。
この顧客層が要求する「商品」とは、大量生産大量消費の恩恵でしか提供できない「刹那」なのだ。
ならば、安かろう悪かろうになって、提供者の「家門」となった矜持が許さない。
1000年間以上の日常には、「信用」が含まれる。
この「信用」こそが「命」だから、背に腹はかえられぬ。
詰まるところ、「信用維持」こそが「衰退の原因」になった皮肉があるのである。
ちなみに、昭和の修学旅行生たちを餌食にした、略奪的土産店がその後駆逐されたのも、彼らがおとなになってからの「不買」による。
ただし、いまだにお上りさん狙いの店があるから、買い手に求められるのは、知識を伴う目利きなのだ。
さて、いまも、かつての「都の豪商」たちが、静かに没落している。
これを、「盛者必衰の理(ことわり)」ともいえないことはないけれど、伝統的日本の良心の衰退、ともいえる、実は国家的損失なのである。
とはいえ、役所が税金をもってこの衰退をとめることはできない。
信用の維持という衰退原因を、カネで解決することができないからである。
では、この「信用の維持」でいう「信用」とはどういうことか?を一遍追及して、定義づける必要がある。
これは、「欧米的思考方法」だけれども、おそらく出てくる「再定義」は決して欧米的ではないだろう。
こうした哲学を、早くやっておかないと、全部が衰退して取り返しがつかなくなる。
京都にして「これ」だから、かつての「藩」が支えた地方なら尚更なのである。
中央が一律支配する、「産業(資金)政策」の要、「銀行法改正」で解決できるものでもない。
「沈黙は美徳」とはいかないのである。