「スエーデンに学べ」るか?

スエーデンの「高福祉」をもって、「理想社会」を強調する左翼(社会主義を理想とする)学者は多数いる。
ソ連・東欧の社会主義体制が崩壊して30年たつのに、まだこのようなひとたちが「生産」されつづけている。

おそらく、学校における教師たちの策謀が、成績優秀の「被害者」を量産しているのだろう。
教師(うえ)から命じられたことに、従順であれば、「成績が上がる」ように設計されているのも、社会主義者がつくった戦後教育制度なのだ。

けれども、それが「高負担」だということを同時にいわない、という特徴が批判の的になって、議論は平行線をたどることになっている。

一体全体、なにを研究しているのか?
研究そのもののテーマも、「高負担」に触れないことを前提にしているのだ。
「日本学術会議」でわかるように、各学会の「最高峰の学者たち」が、政治的(社会主義)活動家集団を形成しているからである。

もちろん、「福祉国家」とは、「社会主義国」のことを指す。
わが国が、「福祉元年」を「宣言した」のは、1973年、田中角栄内閣のときのことだ。
なお、いまにつづく「国民皆保険」が完成したのは、それより随分前の1961年である。

なので、実質的にわが国が「社会主義体制」となったのは、この1961年で、田中角栄内閣は、「もっと福祉を!」と叫んだのである。
これは、「日本列島改造論」とともに、首相としての「国家観」の主張でもあった。

現内閣の「国家観の喪失」と比べたら、ずっとわかりやすい時代だった。
「角福戦争」で知られる、血まみれのジャパニーズ権力闘争を演じた、福田赳夫の「経済の福田」とは、本来、より「自由主義」的であったけど、田中派による金権政治で自民党支配が完成すると、党そのものが田中派になったのである。

その状態のまま、現代に至っている。

大蔵官僚出身の福田の「経済」は、上に書いたように本来は自由主義の維持だったはずが、71年のドルショック、73年の石油ショックの後に組閣した(1976年から翌年まで)ので、不本意ながら「赤字国債」を発行して、ケインズ政策(実は社会主義政策)の公共事業による景気拡大策をとらざるを得なかった。

不肖の息子の福田康夫内閣は、バリバリの社会主義政策を推進したから、「草葉の陰」で、親父のむせび泣きが聞こえたものだ。
「年金記載問題」とかで大揺れしたときも、「政府が手続きを楽にしてやる」のになんで反対するのか?と言ったのだった。

2008年の改造内閣発足時には、「安心実現内閣」と自分で命名して、さらなる「親の顔に泥を塗った」のであるけれど、気づきもしない神経は「異常」であった。
残念ながら、わが国初の「親子で首相」ではあったけど、親の教育の失敗例となったのだ。

そんなわけで、元自民党衆議院議員にして経済学博士の山本勝市『福祉国家亡国論』(1975年)が、「復刻」(令和元年)されたのは、今の日本人に「必読」として価値がある。

さてそれで、スエーデン政府は、10月1日から、新型コロナウィルス「対策の全廃」を発表した。
マスク強制はもとより、ワクチンパスポートも、ワクチン接種も、PCR検査の強制も「やめる」、と。

いわゆる、「インフルエンザ並み」と決めたのである。
だから、「政府として」やることは何もない、という判断だ。

ふだん、福祉はスエーデンに学べ、と声高に言っている学者たちは、このニュースに「無反応」になっている。
まさに、「お里がしれた」のである。

科学が政治に従う、専門家会議分科会とはちがって、政治が科学に従うのは、21世紀の常識のはずなのだ。
にもかかわらず、このブログで何度も書いた、「ソ連科学アカデミー議長ルイセンコ」のようになっているのが、わが国科学の実態だ。

だから、官房長官としてはよくやった今の総理が就任したとき、「日本学術会議」の件で、国民の期待も高まったのだ。
あの件は、何だったのか?
ただの「事務」だったのか?

政治が科学に従ったのではなくて、科学者たちの政治が、政治家を支配したのである。
そうやって、業界団体の「日本医師会」が、組織発足の存在理由に忠実に、業界利権の確保に専念もできて、さまざまな補助金をふところにした。

「おカネじゃないのよ医者は」という医者が貴重になって、「コロナワクチン反対派」というレッテル貼りのプロパガンダも激しい「弾圧」になっている。

国民は、「福祉」で欺されたけど、「コロナ」では、スエーデンに学ばないといけないので、ちゃんとした「区分」が必要だ。

いまは「戦時体制だ」というひとがいて、政府による強制力をもった措置が可能な立法をせよ、とあたかも「保守」が口にするけど、「自由主義」からしたら、とんでもない「全体主義願望」である。
それなら、憲法から改正せよ。

しかし、現実は、駅構内の売店で販売中の「酒類」すら、改札内では「都合により」と断って、清涼飲料水とノンアル飲料しか販売しない。
これはもう「自粛」ではなくて、「全体主義の奴隷になりたい願望」の押しつけでしかない。

わが国は、悪いことは進んで真似たけれども、よいことはスエーデンに真似ることはできない。
これも、国民が「阿呆」に支配されても気づかない、もっと「阿呆」になったからである。

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