「中間層」とは、工業社会がつくった安定の「庶民」をいう。
しかも、その「工業」には、さまざまな「手仕事」があったので、学歴よりも「技能」が通用した社会でもある。
この「層」の稼ぎによる、旺盛な消費が他産業に波及して、他産業でも「喰える」好循環をつくっていた。
これが、家庭内にあっての、「専業主婦」であり、またそれが当然とされたのは、三世代同居が「家族」のふつうだったから、介護の役割ももっぱら主婦が負うことになっていた。
「核家族化」がいわれた時代のことである。
都市における三世代同居とは、第一世代がたいがい地方出身者だった。
そして、それはまた、たいがいが農家の出なのである。
これは当然で、全産業従事者の8割が農民だったわが国は、典型的「農業国」なのであった。
地方の農家が、都市での工業労働力の供給源となった。
いつも都市からの目線ばかりになるが、地方は地方で、「藩」の消滅により中心を失う事件があった。
幕藩体制とは、「連邦制」のことだったから、強力な中央集権になって、地方の没落が進んだことも、都市労働者供給を加速させた。
この一連の出来事を小説にしたのが、島崎藤村である。
「封建制」とは、「家制度」が基礎にあって、それは、武士社会の特性ではなく、ひろくふつうの家でのことだった。
農家だって、長男とそれ以下だったのだ。
だから、それ以下が、ここぞといって都市労働者になった。
家長が全部を相続するから、それ以下は、居場所がないのもふつうだったのだ。
たとえば、『天皇の料理番』になった、秋山徳蔵は、その典型的でかつ成功した人物なのである。
明治・大正期に地方から都市労働者になった、都会移民の一世たちには、その後「自分の家族」が都会にできる。
二世の長男と嫁とが、一世と同居する。
だから、二世の「それ以下」は、独立して「核家族化」したのであった。
こうして、三世代同居が一斉にふつうになったのは、一世たちが地方から一斉に都会に出てきた時期が、およそおなじだったからである。
これが、日本の家族の典型だった、『サザエさん』一家なのだ。
外からきた婿のマスオさんの名前が、海と川の両方で棲む「マス」なのが、長谷川町子の絶妙なのだ。
時間の経過とともに、磯野家がどうなるのか?
長男のカツオが相続すれば、サザエさんとマスオさんは、とうとう家を出ることになるし、タラちゃんだってきっと独立するだろう。
このような変化が当時からはじまって、一体だった家族が分裂をはじめたので、「化」がついて「核家族化」といったのだった。
もちろんこれには、都市における住宅事情も無視できない。
広い敷地があれば、母屋の横に別棟をつくることもできるけど、それは、都市化する前から住んでいた、農家の特権になっている。
いまは、「核家族」が主流になったので、自分の三世代上をしらないふつうができた。
一般に、石油ショックを境に、世界は「脱工業化」の時代にはいった、といわれている。
しかし、工業生産そのものから「脱した」のではなくて、ロボットの導入などの、自動機械化がはじまって、必要な技能の質が変わり、少人数化したのである。
だから、工業が職をもとめる大量な人数を必要としなくなったし、必要なひとの技能も変化して、高度化した。
ひとがやる部分は、おそろしく「超絶技巧」を要するようになったのは、自動機械ではできない加工工程ばかりになったからである。
それに、工業がサービス化して、企画・設計とアフターサービスにこそ、価値の源泉(儲けの種)がある時代になった。
製造現場における価値創造が、製造業のなかで相対的に低下したのだ。
これが、産業構造の変化の大本にある変化なのである。
だから、働く側にも地殻変動のような変化がやってきて、「これまでどおり」が通じなくなった。
そうして、安定の中間層の安定がはずれて、まさに「崩れだした」のである。
明治から150年続いた、江戸時代からみて「あたらしい常識」だったことの、さらなる書きかえがはじまったのである。
コロナによる「あたらしい日常」のうさんくささは、再構築がはじまったことを「隠す」意図をかんじるからである。
われわれは、どこに行くのか?
「流される」ことでなんとかなる時代が終わってしまった。
なにをしたいのか?を追求しないといけない、サバイバル時代に、否応でもなったのである。
そんなわけで、いつの時代も、弱者にゆがみが強力にはたらく。
それが、現代の「欠食児童」をつくりだした。
そんなわけで、みかねたひとたちが、「こども食堂」をはじめた。
「こしょく」が、共通の問題と指摘されている。
・孤食:一緒に食べるひとがいないで、ひとりで食べる
・個食:いつもおなじものを食べて、好き嫌いが増える
・固食:自分が好きなものしか食べない
・粉食:こなもん、とくに小麦を食べて脂肪を多食する
・小食:食欲不振で栄養がたりない
・濃食:手軽な加工食品の濃い味付けで、味覚がにぶる
この活動が、「よい」のは、行政が追いつかず、民間事業であることだ。
そのうち、いつものように行政が乗っ取りにくるだろうけど、なんとか「排除」してほしい。
けれども、最大の改善策は、産業構造から見据えた、国民が「喰える」国にすることなのだ。
おっと、これも政府に任せることではない。
一律の産業政策こそが、貧困化の原因なのだ。
「自由化」を政府が推進してこその、繁栄であると、「こども食堂」が教えてくれている。