「カタルシス」とは、例によって古代ギリシャの大天才、アリストテレスが『詩論』のなかの『悲劇論』で説明した、「浄化」のことである。
ギリシャ悲劇を観た観客には、心に怖れと憐れみの感情を呼び起こすことで「精神を浄化する効果」があると書いている。
ちなみに、『詩論』にあったはずの『喜劇論』は残されていない。
でも、きっとアリストテレスはこう書いた「はず」と伝承されているのが、「笑いにこそ真実がある」である。
有名な、「赤信号みんなで渡れば怖くない」を思いだせば、アリストテレスの偉大さがわかるというものだ。
この書いた「はず」だというエピソードを、思い切り膨らませたのが、イタリア、ボローニャ大学の「記号論」の世界的権威、ウンベルト・エーコ教授が書いた世界のベストセラー小説が『薔薇の名前』(1990年、東京創元社)であった。
ちなみに、この小説には、教授の専門分野「記号論」が折り込まれている。
ガイドブックとして、やや安易のきらいはあるし、番組を観る必要もないけれど一読すると理解が深まるので下はお勧めである。
劇を観て「スッキリ」したい。
確かに観劇の「事前期待値」としてありうるものだ。
ならば、作り手は、どこで観客にスッキリして「もらう」のかを計算して作品作りに励むことになる。
これがそれなりの料金をとる商業演劇の「商業」たるゆえんであるから、商業が蔓延した現代にあっては、観客がよろこぶ「スッキリ」ばかりになる。
そんなわけで、「勧善懲悪」という形式が生まれるのだ。
前に、『水戸黄門』について書いた。
さらに、TBS → 毎日新聞 → 反日 → プロパガンダ、と妄想を膨らませれば、国民へのファンタジーの刷りこみで、いまの「偽パンデミック」という効果がでたともいえよう。
劇などをテレビで視聴するのが悪いといっているのではない。
作り手の意図を読みとることが大切だといいたいのである。
そこで、視聴者離れが深刻というテレビ界にあって、救世主的な視聴率を稼いでいるのが、『半沢直樹』である。
このドラマには、「カタルシス」があるという「評」がある。
悪玉がいじめ抜いたはずの善玉に、最後は「土下座」する。
なんだかわからないけど、いまどき「土下座」とは。
「勧善懲悪」といえば「時代劇」が一世を風靡したものだが、画像の解像度が細かくなってしまい、セットの大道具がぜんぜん本物にみえないし、アップで写る俳優の顔に、カツラの境界が気になってしかたない。
だからなのかしらないけれど、現代劇での「勧善懲悪」にシフトした。
もっとも、プロレスにおいての「勧善懲悪」は、プロレスの歴史そのものだから、現代劇での「勧善懲悪」は、大本にプロレスがあるのかもしれない。
この意味でも、時代劇の陰はうすい。
泰明期のプロレスは、なんといっても「戦後」という時代背景がないと語れない。
文字どおりの「死闘」の相手だったアメリカ人=白人のレスラーが、とにかく「反則」を繰り返す。その手口は、噛みついて血だらけになったり、隠し持った武器をつかってやっぱり日本人レスラーを血だらけにした。
ここまでされても、最後は日本人レスラーの正々堂々とした「技」が効いて、相手が「ギブアップ」する。
まさに、敗戦の意趣返しとしての「カタルシス」があった。
すなわち、日本社会の「ガス抜き」であった。
しかし、血縁でつながる「梨園」からの出演者を、主たる「悪役」に配置した『半沢直樹』は、現代劇を歌舞伎という時代劇の最高峰で彩っている。
香川照之(九代目市川中車)と、四代目市川猿之助は従兄弟同士でしられるから、その背景にある家系というドラマも、観るひとの頭にはインプットされている。
半沢直樹はいないけど、半沢と敵対する奴はたくさん実在する、とはかつての同僚でいまでいうメガバンク出身者たちの複数の「証言」である。
このドラマのカタルシスには、土下座の他にもう一つ、事件後の部下への、みごとな「スピーチ」がある。
まさに、精神が浄化されるのだ。
すると、もっとおそるべき「第3のカタルシス」が隠されていることにも気づかされるのだ。
それは、この劇中、主人公の半沢以外、誰も「マネジメント」のセオリーをしらないで偉くなったり、中堅社員でいることだ。
しかしながら、上の「証言」から推察するに、このことが「劇中」すなわちおとぎ話の中の設定なのではなく、現実の大手金融機関やその他の企業にもいえるということである。
これぞ、おそるべきことだ。
「マネジメント」をしらずにマネジメントしている。ゆえに、ハラスメントが絶えない。
すなわち、『半沢直樹』とは、背景に実世界(実話)がある。
さらなる驚きは、2350年前のアリストテレスの言葉が、現代にもそのまま通じるということである。
すると、『半沢直樹』とは、「悲劇」に分類すべき「劇」なのである。
まさに、カタルシス。