探しだしてマッチングをさせる「サーチ理論」が,ノーベル賞をとる時代である.
つまり,みつけものをなかなか探し出せない,ということがあるのが現実である.
そこで,いろいろな「サーチ(探索)」を試みることになる.
ネット時代だから,だれでも「ググる」ようになった.
これに,専用のアプリも加われば,「電話帳時代」にはかんがえられない便利さで,おおくの情報をえることができる.
ところが,それだけでは得られない情報もある.
それでも探そうとするか,それともあきらめるか?ここが,分岐点になる.
安易なひとを批判するときに,グーグルで検索できなかったらそれでやめる,ということが対象になっている.
「ランキング」がテレビ全盛時代に流行ったことがあった.
「なんでもランキングの発表」というのが,一世を風靡した.
では,いまは下火かといえばそうではない.
「ランキング」は,もはや「常識」になってしまった.
情報過多で選択肢がたくさんあると,ひとは選ぶことができない.
駅の蕎麦スタンドとて,食券売機のまえで固まっているひとを見かける.
たくさんのボタンに,たくさんのメニューがあって,お金を投入しても一定時間がすぎると,ゲームオーバーとなって返金されるから,はやく選ばなければならない.
このプレッシャーが,さらに選択を困難にする.
それで,気の利いた店は,手作りポップで,「当店人気No. 1」とか,「おススメ」とかを表示して,選択肢を絞り込ませ,ボタンを押す手を楽にする工夫をしている.
「ランキング」には,この「絞り込み効果」がある.
だから,おなじ範囲でのランキングでも,「百位」から「4位」までは意味をなさない.
「トップ3」が選択肢としての限界になるからだ.
むかしからの,日本料理屋の「松」,「竹」,「梅」はよくできているメニューである.このばあい,まんなかの「竹」がいちばんよく売れる.
1位と2位の売上差は,半分以上にもなる傾向があるというから,3位ではかなり落ちるものだ.
ところが,「ランキング」には,誰に聞いた結果なのか?という「落とし穴」があって,およそ「統計学的」に有意とはいえないようなものがおおく混じっている.
サンプル数やサンプルの抽出方法,それに有効回答数などの基礎情報が公表されないものは,おおくが「あやしい」ものであるから信用できない.
そこで,じっさいに使ったひとが評価するという方法がでてくる.
「飲食店の案内サイト」に「旅行サイト」や「宿の予約サイト」などなどの「評価ポイント」である.
これらには,点数のほかにコメント欄があって,店側からの返答まである.
ところが,ここにも「落とし穴」がある.
利用したひとの生活感や価値観が,そもそも不明でわからない.
だから,自分との比較で,おそろしくトンチンカンな評価もあるのだ.
であればこそ,「プロが選ぶ」という「ランキング」に注目することになる.
ところが,驚いたことに,そこには「選者」も「選定基準」すらも表示されていないことがある.
いったいどの分野の「プロ」なのかが不明で,「プロが選ぶ」とはどういうことか?
わたしの最大の疑問である,「利益」が基準になっているとおもえないことも加えたい.
つまり,経営が赤字なのに「すばらしい」という評価をすることだ.
これには重大な問題がある.
おおくの店を,赤字経営に誘導するからだ.経営者をして,「目標」に「ランクが高い店」を置くのはある意味自然である.しかし,その店あるいは経営会社が「赤字」だったらどうするか?
「業界」が,あやしいプロたちの餌食になってはいないか?と疑うのだ.
そして、健全な店や経営会社を,「赤字」に誘導すれば,なんらかの「相談」があるかもしれない.つまり,商売になる,としたら,悪魔的な戦略ではないか.
この被害者には,従業員もふくまれる.
人的サービス産業の生産性が低いことの,間接的な原因のひとつになっていないか?
要するに,みずからの「絶対値」が必要なのである.
これがあって,はじめて他との比較基準ができるというものだ.
そうなれば,世の中の雑音に惑わされることはない.
情報過多時代とは,情報そのものが「甘いささやき」をしていることがある.
なるほど,「サーチ理論」が注目される理由がわかろうというものだ.