ポスト・コロナに「温暖化対策」がやってくると予想したら、「案の定」である。
ただし、コロナが終了したとはいえないので、「並行ラン」という状態になっている。
思い返せば、「ダイオキシン」が大騒ぎになったのは、前世紀の終わりであった。
それで、1999年(平成11年)には、「ダイオキシン類対策特別措置法」(議員立法)という法律が成立し、翌年1月から施行された。
困ったことに、この法律では、「ダイオキシン類が人の生命及び健康に重大な影響を与えるおそれがある物質であること」が前提になっている。
しかしながら、ダイオキシンが「無害」であることは、その後の「科学的検証」によって明らかになった。
にもかかわらず、「法律」は生きのびている。
「議員立法」という言葉は、わが国「独自」といってもいいほど、矛盾に満ちている。
そもそも、国会議員とは、立法府に属するのであるから、全ての法律が立法府で立法される限りにおいて、全部が「議員立法」のはずである。
ところが、わが国の「慣習」では、「内閣(=行政府)提出」の法案が優先的に審議されることになっていて、議員発議の法案は審議すらされないことが多い。
さらに、「国会法56条」では、衆議院20名、参議院10名以上の賛成がないと、提案すらできないのだ。
これには理由があって、一人の議員が勝手に、好きなような法案を何本も提出したり、地元へのお手盛り予算配分をすることの「防止」という大義名分がある。
つまり、過去に「やった」ひとたちがいるのだ。
それで、そんなお困り議員を落選させることもできないから、国会法で縛ったということである。
議会が議員活動を縛る、という矛盾をどう考えるべきなのか?という議論もない。
これが、「慣習」になってしまった。
世の中で最も強烈な法は、「慣習」から生まれる「慣習法」である。
この「法」には、明文化された条文がない。
英国憲法のようなものだ。
だから、「最強」ということになる。
条文がないから、「改正」が困難なのである。
そんなわけだから、司法の役割が出てくるのだけど、日本の司法は自律して積極的な法律のチェックを行わないという、「深い眠り」に入ったまま起きてこない。
この国は法的な「自律神経失調症」となってしまったのだ。
ところで昨今、イスラム教徒のひとたちが来日して、多数が「居住者」になっている。
この人たちから見ると、日本は「理想的なイスラム社会」だという評判がある。
日本人がふつうに抱いている、「道徳観」が、あたかも「原理主義的」に見えるからだという。
その道徳観で、社会に同調圧力がかかるのは、イスラム法の無理やりの執行よりも「理想社会」だというわけである。
アフガニスタンを「平定した」タリバンの公報が記者会見で述べたことの政治的意味はここでは語らないけど、「全てイスラム法による統治をする」といったことに、「日本のようになりたい」という意味がどれほどあるものか?これを質問する知見のある記者がいないのが残念だ。
日本人には、全く異質、という思いがあるのは承知だが、相手がどう思っているかは相手次第なのだから、日本人の思いとは関係がないものだ。
しかしながら、コーランを起源にした「イスラム法(=「シャリーア」)」は、「人間として踏み行なうべき道」を意味するのだ。
ここに、われわれ日本人の道徳観との一致があることは知っていていい。
ただ、われわれ日本人は、コーランを知らない。
これを、「富士登山」に例えれば、山頂にある浅間神社をコーランに置き換えると、なんだか「そっくり」になってくる。
もちろん、コーランが示す登頂ルートと、麓各地の浅間神社から目指すルートが「ちがう」ということはある。
ただし、「人間として踏み行なうべき道」とすると、あんがい似ているのだ。
それでも、絶対的に違うのは、「西洋」への意識である。
日本人は、とっくに西洋化してしまったし、西洋の手本を自認するまでに至っているので、「温暖化対策」が信仰の対象になった。
だから、ここには「科学を無視」してもはばからない。
中東のイスラム教徒は、西洋を警戒しキリスト教を敵視しているので、西洋文明への疑義が根本にある。
よって、西洋文明を全部受け入れる気は毛頭ないから、その基礎をなす、「科学を無視」できるのである。
こうして、「科学無視」という共通を、在日イスラム教徒が共通点として見ているなら、これには反論できないのだ。
一方で、日本人もイスラム教徒から学べるのは、西洋への疑義である。
西洋人が言う「温暖化対策」とは、「政治キャンペーン」に過ぎない、からだ。
そして、まともに「対策を実施」している日本は、ひとりバカをみている。
最低でも年間5兆円が、ムダに使われているのだ。
累計でいくらの国富をドブに捨てたことか?
そうやって、税と社会保障の収入に対する国民負担率は上昇を続けて、70年代の3割から今の6割となっている。
江戸時代の「五公五民」よりひどい、「重税社会」なのだ。
若年層の貧困は、ここにも由来している。
現在の後期高齢者たちが、青春を謳歌できた「消費」の源泉は、今の若者より30ポイントの余裕があってのことだった。
政府は中国やアメリカにならって、なにもしないという「対策」で、先ずは「五公五民以下」にまで縮小すべきなのである。
徴収に強制をともなう「重税」とは、国民財産への政府の介入のことであって、財産処分に関する「自由の侵害」にほかならない。
個人が稼いだお金を、個人が自由にできず、政府が奪うからである。
効果的な方法は、「減税」による政府財源の「遮断」だ。
さては、このあたりは、イスラム社会とは違うけど、どっちがいい?