「地質図Navi」の面白さ

生活のあらゆる場面で、「自分から」情報取得をしないといけない時代になったことを、「情報化時代」という。

なんだか、「情報化」というと、勝手に情報がやってきて、便利な時代になったものだ、とおもっていたのはついぞ昔のことになったのだ。
いま、勝手にやってくる情報のほとんどが「プロパガンダ」になったからである。

「飛脚」が「郵便」になったことを、「情報化のはじまり」ということにしているけれど、これも現代目線からロマンのある表現でしかないのではないか?と疑うのは、昨今の「プロパガンダ」の酷さに気づいたための被害妄想なのだろか?

「飛脚」が業務用通信で運んでいたのは、「手紙」よりむしろ、「為替」だった。
「天下の台所」の大阪商人は「銀」を主たる通貨にしていたので、「Bank」を「銀行」と訳し、「金行」にはしなかったのである。

12月といえば、『忠臣蔵』(史実の「赤穂事件」の発端になった「松の廊下での刃傷」は、元禄14年:1701年)にもでてくる、江戸と本国の赤穂との定期の他に緊急連絡体制があったことは、驚きに値するというけれど、想像力を働かせばふつうのことではないか?

幕藩体制下での「藩」は、一種の独立国で、アメリカ合衆国にあてはめれば「州」にあたるし、幕府は連邦政府になる。
そのアメリカ史を思い出せば、カリフォルニアで金が発見されて「ゴールドラッシュ」になったのは、1848年のことだ。

わが国の元号では、1848年はちょうど「嘉永」で、「弘化」のあと、1854年からは「安政」になるときで、天皇は明治天皇の先代、孝明天皇の御代、将軍は12代家慶、13代家定であった。

ちなみに、「黒船来航」は、1853年(嘉永6年)のことだったので、この時代のイメージすら、「分断」されている。

つまり、「日本史」では「黒船からはじまる幕末の動乱」になるけど、「世界史」では、アメリカのゴールドラッシュはテーマとして軽視されているばかりか、これら二つの出来事が「同時代」だと生徒に教えないのだ。

そればかりか、詳しい時代背景がわからないままで、「西部劇」をたっぷり観せられて、悪いのは全部「インディアン」だから、バタバタと殺されても、画面に拍手を送らされたのだった。
インディアンがいない草原こそが「平和」なのである、と。

さすがにこれは「まずい」と気がついて、もはや「西部劇」をつくることも上映することもしなくなったけど、こんどは、「ポリコレ」に傾倒し過ぎて、もっとナンセンスな映画がつくられている。

もちろん、日本人にとっては、「縄文人の末裔」として血の繋がりは、インディアンやら南米のインディオたちにあるから、まったくもって、ひどい映画に拍手を送ってきたものだ。

ゴールドラッシュに話を戻せば、前にも書いた伝記の名手、シュテファン・ツヴァイクが書いた、『人類の星の時間』における、世界史的運のない男ズーター氏の悲劇は、合衆国憲法があろうがなかろうが、これを守る国民の意志の欠如がどんな結果を招くかを示す、とんでもなく「大きな話」なのである。

それが、赤穂事件で江戸表と国もとで飛脚が飛び交った、150年後のアメリカの姿なのである。

なお、アメリカ大陸横断電信ができたのは1860年代のことで、1841年の記録では、第9代ハリソン大統領が在任1年にして死去したニュースがロサンゼルスに届くのに110日かかっている。
日本の電信のはじまりは、明治2年(1869年)という、「早さ」なのである。

2022年中間選挙の、実質的な「争点」とは、この「合衆国憲法」を守るか無視するかの攻防だ。
しかしながら、こんな重要なことを、アメリカのマスコミも、日本のマスコミもぜんぜんいわなくなって「プロパガンダ」に終始している。

もちろん、合衆国憲法を「ないがしろにする」ひとたちを「応援する」ばかりだからである。
そんなひとたちが、日本国内では「護憲」をいうから、その「意図」を勘ぐりたくなるのは人情というものである。

さてそれで、いかに首都ワシントンD.C.から大陸の反対側であったとはいえ、太平洋の反対側にある日本にも艦隊を繰り出すことをしていた。
もっとも、ペリーの艦隊は、大西洋からインド洋を越えてやってきたけど。

当時からしたら、極東の島国を「開国」させることと、カリフォルニア州の農場主の権利(「土地所有権」のこと)を守ることができないことが、同時並行的だったことにもっと注目していいのである。

これを、「わざと」させないように教育しているのではないのか?

そんなわけだから、「情報リテラシー」の本筋を教育しないで、「プログラミング」を教えることを優先させる。
たしかに、圧倒的に「プログラミング人材の不足」はわかるが、だからといって小学校から「正規の授業」でやらせることか?

広義の「児童労働」にあたらないのか?

これが、まわりまわって、自分の立っている地面のことにも興味がないように仕向けるのは、「受験結果」における学校と教師の「評価」が最優先されることになったからだ。
その最たるものが、塾や予備校の実績という評判である。

選別する学校側(たとえば「難関校」)は「いい学校だ」と評価させる意図的勘違いの促進も、プロパガンダではないか?

日本の難関校を出ても、世界企業の本社幹部候補として就職することもできないで、せいぜい「日本支店勤務」のローカル・スタッフになるしかないのが、はっきりしている「実情」なのだ。

もはや、アメリカの大学に入学して、そのままアメリカ企業に就職することが、圧倒的な「勝ち組」になってしまった。

にもかかわらず、「そんなことを勉強する閑があったら、いまは受験勉強しなさい」という呪文が、情報リテラシーのない親世代に焼き付けられているから、とにかくテストの点数で、「偏差値50以上」すなわち、「平均点以上」をとらないと人間扱いしない社会にしたのである。

しかし、どんな社会でも、「偏差値50未満」すなわち、「平均点に満たない」ひとが、かならず半分いる。
義務教育の重要な目的に、「人生を生きのびるための学び」があることをまったく無視しているのだ。

傾向として、この「偏差値50未満」が「主力」となっているのが、「観光業の現場」なのだ。

だから、「観光立国」では、国民は食っていけないのであるけれど、その理由は「偏差値50未満」だからではなくて、答のないビジネスの答を追求することもやらないからである。

自分たちの営業地域の「風光明媚」の根本たる、「地面」についての興味もないというありさまで、それがむかしからいう「温泉宿の温泉知らず」になったのである。

以上のことをふまえて、国立研究開発法人 産業技術総合研究所 地質調査総合センターが提供している、便利な「地質図Navi」を眺めてほしいものである。

ただし、「産業技術総合研究所」が、「総合」としての「産業」を、「観光業」だとおもっていない節がある。

この「ミスマッチ」が、観光業へのブーメランなのだ。

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