「辞世」を詠めるか?

すこし遅れてか?とおもわれるむきもあろうけど、このブログの読者なら「旧暦」をときどき思いだすことに慣れてもいるだろう。
一昨日の8日は、旧暦で12月14日。
318年前の「討ち入りの日」なのである。

それにちなんで、東映創立10周年記念作品でもある、1961年『赤穂浪士』を観た。数ある「忠臣蔵」でこれにしたのは、わたしが生まれてちょうど二週間目に公開の作品だからだ。
もちろん、当人には知る由もないし、記憶もない。

当時の映画会社は、俳優陣も「専属」だったから、周年記念作品として、「オールスター・キャスト」であるのは当然として、そのスケールは「スペクタクル映画」なみなのである。
「CG」がない時代に、おそるべき数のエキストラが、はるか遠くまでちゃんと衣装をまとっている。

本物の建物も、まだぜんぜん排気ガスにさらされていないから、むかしのすがたで凛として建っている。
なによりも、俳優たちの演技が、「全盛期」らしいかがやきで、その深みにひたすら感心するばかりだ。

もはや、いまの俳優にはまねできまい。
「4K」とか「8K」とかが、浮き上がってむなしく、ばかばかしくなるのは、映像機器の進歩に逆比例して、かんじんの俳優がいなくなったことを確認できてしまうからだ。

このときの「作り手」たちは、まさか60年近く経ったら、「退化」するなんて想像もしなかっただろう。
ましてや、娯楽映画のはずが、二度とつくれやしないことだけでなく、教科書あるいは資料レベルになっているのだ。

それにしても、出演者それぞれが「主役」をはれる実力者でありながら、たとえ端役であろうとも、おそるべき演技の競演をやっている。
どこにも手抜きがないのは、「鍛錬」ということにしか集約しない。
げに、赤穂事件そのもののドラマ性が、端役を端役にさせないのだろう。

歌舞伎における忠臣蔵は、京都から帰る高校二年の修学旅行で、親、親戚からもらった小遣いをつかわずに、そのまま歌舞伎座へ行って、11月顔見世大歌舞伎の「昼の部」、しかも大枚はたいて「A席」の前売り購入したのをおぼえている。

ほんとうは、「通し」で「夜の部」も観たかったが、なにしろ高校生には資金がなかった。
4階の「大向こう」という案は、思いつかなかったのである。

それから幾日かして、はじめての歌舞伎座は、周辺の年寄りたちが「せんべい」をかじりながら観ていた。
袋の音とポリポリかみ砕く音が、なんともいえない「芝居小屋」にしていたが、500円でかりた音声ガイドのおかげで、イライラすることはなかった。ただし、「A席」でこれかよ、という感想はわすれない。

幸四郎あらため白鸚の高師直、梅幸の塩冶判官、勘三郎の大星由良助。ちなみに、当時の勘九郎は大星力弥で、親子を親子が演じた。
しかも、「昼の部」最後の、お軽・勘平の東海道戸塚の場面は、梅幸のお軽、勘三郎の勘平という二役だった。

いまからすれば、夢のような舞台であった。
つくづく「夜の部」がうらまれる。

吉田茂の「ワンマン道路」といわれた横浜新道には、さいきんまで松並木がのこっていたが、あたらしいインターチェンジの工事であっけなく撤去された。歴史はこうして、「忘却」されるのか。
この東京よりの歩道には、「お軽・勘平の碑」がいまでも建っている。

地元商店街と歌舞伎役者が協力して建立したとある。
いい時代があった。
きっと落成式には、有名役者たちも参列したはずだ。
ここを通るたびに、梅幸のお軽と勘三郎の勘平が、並木のあいだから踊りながら出てくる気がいまでもするし、想像してしまうのだ。

さて、映画にもどれば、吉良上野介は月形龍之介、浅野内匠頭は大川橋蔵、大石内蔵助は片岡千恵蔵、千坂兵部が市川右太衛門。
清水一角が近衛十四郎、大石主税は松方弘樹の親子である。

大川橋蔵演じる浅野内匠頭の悲壮感。
これは、銭形平次とはまったく別人である。

刃傷事件後、即日切腹となる浅野内匠頭。
しかして、事ここに至ってなお、辞世を詠む。
かんがえる時間はいかほどか?

風さそふ花よりも猶ほ
    我はまた春の名残をいかにとかせん

無念である。
岩手県一関市が、浅野内匠頭お預けになった田村家の領地である。
市立博物館には田村家文書が多数保管されていて、そこに浅野内匠頭の関連もある。
しかし、残念ながら「辞世」についての記録がどこにもない。

「忠臣蔵」じたい、事件後70年の「作品」なので、史実と装飾がまじっていることは否めない。
じっさいに、「辞世」は「なかった」にしても、おおくのひとが「ある」と信じたのは、たんに「願望」だけではあるまい。

あたかも「真実」として「辞世」が伝えられているのは、当時のひとたちの「教養」がいかほどであったかの「常識」がないとすぐさま「嘘」になるからだ。

さてそれで、ものの数分で「辞世」が浮かぶか?
いや、それよりも、そもそもふだんからにして「歌を詠める」か?
漢詩にしても、和歌にしても、そんなことはできない。
恥じるべきは、才能以前の教養のなさである。

究極の「終活」とは、後世に残る「辞世」を詠むことではなかろうか?
ならば、すぐには死ねない。

極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人

四十七士にひとり多いのは主君をいれるからである。
これは、「本物」、大石内蔵助の辞世、享年45歳。

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