「軍事用語」をこの国ではどう扱うのか?
といえば、そもそも「軍事」をおしえる一般大学での授業がないし、「情報学科」はあっても「インテリジェンス」をおしえる学科もない。
「情報」といえばなぜか「コンピューター」や「IT系」ということになっている。
つまり、「ミクロ」のはなしばかりなのである。
ところが、「経済学部」や「経済学科」になると、「マクロ」が先行して「ミクロ」が軽視される傾向がある。
「マクロ経済」とは、国家単位で経済をみる学問で、「ミクロ経済」とは、一企業単位で経済をみる学問だ。
しかし、学問分野という「ミクロ」をやめてしまえば、学生がとる授業の幅はあんがいひろく、「歴史」だってある。
しかしながら、「俯瞰する」という態度がないから、専門となるとたちまち「ミクロ」になるのである。
「囲碁」や「将棋」というゲームは、ちいさな盤面内ではあるが、勝利のために「俯瞰する」という態度をひつようとするので、教養人や指導者にこのまれる。
「頭の体操」になるからだ。
ここでいう「頭の体操」とは、細かい手をかんがえること「ではなく」大局を思考する、すなわち「戦略」をかんがえることを意味する。
ビジネスにおいても「戦略」ということばは多用されるけれど、「戦略」とはなにか?を定義づけてつかっているひとはすくないものだ。
それで、「戦術」との区別が混乱するのである。
「戦」という字が共通なので、「戦略」も「戦術」も、どちらも元は「軍事用語」であるし、軍事用語として当然ながら「現役」である。
「戦略:strategy」、「戦術:tactics」。
物騒だが「戦略核兵器」と「戦術核兵器」のちがいに鈍感なのは、日本人いがいは未開人かもしれない。
すくなくても「核兵器」はいけないもの、という「観念」のもと、「戦略」だろうが「戦術」だろうがおなじく「いけない」という「条件反射」になってしまう。
問いの、「戦略核兵器」と「戦術核兵器」のちがいなにか?にこたえずに、「いけないもの」というのでは、採点すらできない。
ソ連がバンザイして終結した冷戦は、アメリカが仕掛けた「宇宙兵器」ともいわれているが、西ヨーロッパに配備した「中距離弾道ミサイル」が、じっさいにトドメを刺したのである。
これはなにか?をしらないヨーロッパ人はいないが、「中距離弾道ミサイル」とは「戦術核兵器」のことである。
これらのミサイルを、大量に配置するという「戦略」を、「ヨーロッパ核戦略」という。
有史以来、人類は「パワー」をもって相手を凌駕してきた。
だから、「パワーポリティクス」というのは、「本音」のことをいうのだが、あまりにも「露骨」なので、さいきんは「きれい事」を表明することで「本音」をかくすことが「常識」になっている。
だから、相手の「きれい事」を聴いて、それを信じるということほど「危険」で「愚か」なことはない。
たとえば、昨日は、東京オリンピックのマラソンや競歩の競技が札幌開催にきまった、というニュースがあった。
このニュースは、酷暑の中東でのレースが失敗におわったことで準備されていたことではないのか?
すなわち、「最悪」をかんがえるということの「戦略思考の放棄」が、現代日本人の指導層に「ふつう」にあることが、露骨にあらわれた「ニュース」なのであって、開催地の変更が「ニュース」なのではない。
また、米国在住の国際政治アナリスト伊藤貫氏による、オバマ大統領の氷のような思考と態度だって、日本人がしらないことだらけだ。
オバマ氏は、核兵器の1兆ドルをこえる大増産を指示しながら来日し、広島であろうことか「核廃絶」を訴えた。
これに日本人はこぞって「感動」したのである。
こんな茶番があるものか。「ナイーブな日本人」ではすまないバカにされようなのだ。
世界の大局をみる習慣がないことで、国民が「大恥」をかかされていることすら気づかない。
また、わが国マスコミは、視聴者に世界の大局を報じる気がない。
島国のなかで、ちまちま幸せにいればそれでいい。
これは、ヘンテコな一国平和主義である。
国籍が何人であろうが、腹黒いのが世界の常識であることを前提にすれば、「大局観」を得るための情報のとり方がある。
戦略は、その結果えられる思考展開のことだ。
腹黒い世の中で、戦略がなければ滅亡する。
個人も、企業も、国家も、これから逃れることはできない。
さぁどうする?が突きつけられている。