「生産性向上」とはいうけれど

人口が減るから生産性向上なのか?

日本の人口の減り方は尋常ではない.人類史上はじめての経験,ともいわれてひさしい.一方で,歴史的な出来事の最中に生きているひとには,それが日常なので,変化に気づきにくい,といわれる.だからか,わが家のご近所さんとの雑談で,「人口減少」を言うと驚くひとがまだたくさんいる.その驚きかたに,こちらが驚いてしまうほどだ.はじまったばかり,だから仕方がないのかも知れないが,生活実感として,それほどでもないということなのか.

ところが,企業経営者は,まず「人手不足」という困り事から,「労働人口の減少」を実感している.かつての「花形」職種でさえも,欠員ができるほどだ.そこで,新聞をみれば,やっぱり記事も「労働人口の減少」を書きたてているし,政府も「対策」を急ぐらしい.しかし,対策といっても,政府が子どもを産むわけではないから,おのずと議論は二つの問題になる.一つは,政府は子どもを産まないかわりに外国人を連れてくる「移民受け入れ」であり,一つは,人間の数が少なくても多くの生産ができるようにする「生産性の向上」である.

「移民受け入れ」は,文化の問題以前に,「移民も年をとる」ということと,「移民も子を産む」ことが問題で,なかなかはなしがまとまらない.一方,生産性の向上は,政府が直接やってできることではないから,やれやれと民間の尻をたたくことぐらいしかない.そもそも,「生産性」をあれこれと,「生産性」の意識などまるでない政府から言われる筋合いではないのだが,財界は喜んでいるようだ.まったく不思議な光景である.経産省や厚労省官僚の残業時間を聞いてみたいものだ.もっとも,インプット(投入資源)に対するアウトプット(効果)という観点からすれば,これらの役所の存在自体が問題になるだろう.ただし,彼らの価値観では,「複数年次に,できれば永続的に,多額の予算を投入して,世の中の役に立たない事業」を提案できてこそ出世条件になるということも国民は理解しなければならないが.

「人手不足」という尻に火がついたから,「生産性の向上」が必要なのではなく,もともとはいつでも「生産性の向上」は必要なのだ.それは,企業には「極限の利益追求」という使命があるからだ.

「極限の利益追求」をしない日本企業

日本企業の行動原理は,「極限の利益追求」ではない.もちろん,決算発表にあたって,だれも「当社は極限の利益追求をしておりません」とは言わないし言えない.しかも,社内の予算策定で,役員のだれも「極限の利益追求はしなくてよい」とは言わないし,むしろ,「もっとよい数字にしろ」と指示するはずである.

では,どうして「極限の利益追求」をしないと言えるのか?

日本企業の経営者は社員である

経営者が「経営していない」ことは,二社の子会社が,不正を知りながら出荷していた問題で,三菱マテリアル本社の社長の発言,「承知していない」という事例や,これまでの神戸製鋼,日産,スバルの事例からもあきらかである.要は,「現場丸投げ」なのだ.

「現場こそ当社の命」という経営者で,現場に詳しいひとがどのくらいいるのかわからないが,「現場丸投げ」の裏返しかもしれないと疑っていいだろう.このことについて,アメリカの経済学者でノーベル賞も受賞したガルブレイスが,1968年の『新しい産業国家』で証明している.

大企業は,「テクノストラクチュア」といわれる社内の専門家たちに「簒奪され,支配される」とある.これは,組織をあげてヨコの繋がりをもつ「テクノストラクチュア」が,「自分たちの安全」を優先させて行動するという原理だと説明している.だから,彼らは「極限の利益追求」をしない.自分たちの安全とは,安楽でもある.会社には成長は必要だが,会社が存続できる程度の利益があればよい,という発想になるのだ.

ボトムアップ型の日本企業は,大なり小なり「テクノストラクチュア」に支配されている.

安楽な会社では「生産性の向上」はできない

「テクノストラクチュア」の考え方を変えさせなければ,「生産性の向上」はできない.90年代の日本が「絶頂」を迎えたときも,生産性ではG7国のブービー(ビリは英国)だった.その前後は,一貫して「ビリ」なのだ.つまり,わが国は,生産性という視点で見れば,万年ビリの二流国であり続けていた.これは,忙しそうに働く振りをする天才たちによる「一流の幻想」でもある.その天才たちこそ,「テクノストラクチュア」だ.

本物の経営者と本物の労働者が必要

本物の経営者とは,企業の将来像を示せるばかりでなく,「テクノストラクチュア」から実権を奪い返す気力と知力をもった人物である.また,本物の労働者とは,自分の労働の価値を知っている人物である.労働者は人身売買の対象ではない.労働力を売っている人物のことである.この感覚があって,はじめて「プロフェッショナル」への入口に立つことができるのだ.

銀行から排出される人材の再教育が肝心である

日本のメガバンクが,大規模な人員削減をおこなうと発表された.この人材をいかに有効利用できるのか?そのための再教育をどうするのか?経済界は政府に依存するのではなく,「プロフェッショナルへの改造」をみずからおこなうべきである.

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