「産学」が一体になって新しい価値を見出す、というのは、世界的な「常識」である。
しかし、これに「官」が加わって、「産学官」となったら、目的に据えたはずの「科学技術大国を目指す」ことに失敗した。
この「原因」には、二つの「原理」がある。
一つは、わが国に「デジタル政府ができない」ことにつながる、行政府の役人の「縦横無尽」な越権的な自由度があることだ。
もう一つは、科学者でも「将来予想はできない」という原理であり、役人がこの原理を「無視する」ことによる。
まず、「将来予想はできない」という原理とは、自然科学の法則を「発見」することや、技術の「発明」は、予測がつかないのである。
だから、「発見」となるし、「発明」は保護される。
つまり、将来にどんな「発見」や「発明」があるかは、現時点では予測がつかない。
日本では、森喜朗内閣で、「IT」に重点をおいて、「デジタル政府」を実現すると宣言した。
森総理が、「アイティー」と言わずに、「イットゥ」とさかんに言って失笑を買っていたのは、秘書官がわざと恥をかかせたのではないか?
この「宣言」によって、遅ればせながら「宿帳」もデジタル化が許されるようになったけど、ほぼ全国の宿泊施設では、いまだに「紙」のカードにボールペンで住所と名前を書かされている。
旧ソ連の中にあった、バルト三国のひとつ、エストニアは、人口が130万人ほどの小国だけど、行政事務のほとんどが電子化された。
日本とは規模がちがう、ということは言い訳にはできない。
たとえば、人口でいうなら、青森県がエストニアとほぼ同じ。
市なら、さいたま市がこれにあたる。
国ができないから、自治体で進まないというのも詭弁だ。
なにしろ20年も前に「デジタル政府」を国が宣言したのだ。
しかも自治体がやるべき行政事務は山ほどあるのに、そのどれもが「相変わらず」なのである。
これには、二つの理由がある。
一つは、「業務の簡素化」になるので、採用した人員が余るからだ。
バブル後に、用もないのに臨時職員採用した、首長がマスコミにもてはやされる「異常」もあった。
公務員にスト権がないので、その代わり「身分保障」した。
一旦採用されたら、本人の希望と不祥事以外に「解雇」はできない。
しかし、これは民間企業にとっても同じになった。
すなわち、配置転換ができない、のである。
そして、もう一つが、やっぱり行政府の役人が恣意的に自由な「裁量権」を持っているので、機械的な行政手続きでも、デジタル化が困難になるのである。
行政に恣意的な裁量権が許されているのは、本来これを監督して縮小させる役目の「議員」にも便利だからである。
たとえば、支援者からの要望に応えたい議員は、役人に裁量権があるからその範囲での便宜を受ければ、「汚職」にならないからである。
持ちつ持たれつ、ということだ。
これでは、デジタル化しても、人工頭脳にやらせようがない。
恣意的に判断せよというプログラムが書けないのだ。
そんなわけで、デジタル化された政府とは、逆に、裁量の範囲がない、という、まったく「機械的」な政府のことなのである。
これぞ、三権分立の究極で、行政府のあるべき姿である。
すると、その「しわ寄せ」は、立法府にやってくる。
行政へのあらゆる苦情は、まず、議員のもとに集まるだろう。
議員たちは、どんなルールを「立法」するのか?
次に、司法府にやってきて、「行政訴訟」になる。
ちなみに、わが国では、行政訴訟における原告の「勝率」は低い。
これには、あたかも「裁判官」の裁量があるように思うだろうけど、現実には、裁判官も「サラリーマン化」したのが、わが国の「司法」なのだ。
全国の裁判所の裁判官の「人事評価」は、最高裁判所事務総局にいる「行政官」が仕切っているのである。
役人人事の世界は、複雑怪奇で、最初に入省した役所に「本籍」を置くけれど、「国家公務員」だから、どの役所に「異動」になってもかまわない。
これを、役人の世界における「出向」という。
それが、地方自治体を含めた「行政府」の中でのたらい回しならまだしも、「人事交流」と称して、行政府の役人が国会事務局や裁判所事務にも「出向」するのである。
こうして、わが国は行政府の役人が、三権を統一支配している。
そんな「全権」を握った役人集団は、「学術」にも口を出す。
税金が元の「予算」という、自分の金ではないものをちらつかせて、相手組織を牛耳るのである。
だから、「学術」に関心があるのではない。
しかも、企業や学者よりも、自分が受験エリートだと自負しているから、研究の内容も「簡単」だと理解する。
すると、企業も学者も役人に日和ると「得をする」という錯覚に陥れば、むしろ積極的に売り込むのである。
こうして、世界最先端の研究ではないものが、あたかも「最先端」だと、それぞれの「思惑」からの「幻想」ができあがる。
よって、産学官のセットは、ことごとく「失敗」するのである。
しかし、この失敗で誰かが責任をとることもない。
「被害」を被るのは、国民だ。
大損で企業が傾けば、ようやく「株主」があわてて経営陣を糾弾するけど、後の祭りである。
ならば学者の方はといえば、世界の学会の笑いものにはなっても、大学を追われることはない。
三者三様、ノーリスクだから「はびこる」のである。