制限速度を超えると「速度違反」になるけど、制限速度にぜんぜん達しないでいても「速度違反」になるのは、高速道路や自動車専用道のばあいである。
「例外」があって、一般道でも観光地などで、渋滞が予想されるばあいは、最低速度に制限をかけてよいと、警察庁は通達している。
しかし、最低速度制限を設定している一般道路はないから、いまのところ幻である。
あおり運転が社会問題になっているなか、「逆あおり運転」というドライバーもいる。
とにかく低速で走行(10Km/hとか)したり、カーブや交差点で極端に減速、または停車してしまう。
これはこれで、後続車には迷惑で、かつ、危険だ。
こんな運転を意識的にしているひとと、無意識でやっているひとがいる。
どちらも、「法的」には問題ない、ということになるけれど、できれば遭遇したくない。
「流れ」にあわないといけないのは、「許容範囲」の問題となる。
つまり、「安全」を最優先しているというばあいでも、そこには「社会的な許容範囲」があって、このことが「基準」になるのである。
スクールゾーンだから、制限速度30Km/hを厳守せよ、は理解できる。
しかし、スクールゾーンだから安全のためにと、だれも歩行者がいないなかで、とにかく5Km/hで走行されては困る、ということだ。
すると、弱者の側の安全教育がどうなっているのか?も気にかかる。
とくに自転車の暴走による死亡事故があることだ。
昨今、両耳にイヤホンを装着している歩行者も、自転車もよくみかける。
中学、高校における安全教育はどうしているのか?
自転車で老人を跳ねてしまった高校生や、小学生は、億円単位の賠償金を一生かけて払わなければならなくなる。
自転車に賠償保険をつけることが義務化されたからといって、事故による加害の責任は消えてなくなるものではない。
絶対安全は理想であって、手前にかならず「社会の許容範囲」がある。
そして、その手前に、「安全努力」が要求されているのだ。
この努力が、業務遂行をさまたげることもある。
ならば、業務の通常遂行にその手間分をあらかじめ含めておかなければならない。
安全努力のせいで業務が30%ダウン(1-0.3)するのが通常なら、そこがあたらしい100%達成点になる。
これを無視して、110%や120%、あるいは元の水準にもどすなら、1.43倍の効率化を、安全努力とは別の改善で達成しないといけない。
1/(1-0.3)=1/0.7≒1.43
さてそれで、鎖国しているわけではない現下の経済生活にあっては、「国際的」な「社会の許容範囲」の合意がないと、なにも「貿易」できない。
A国産のテレビは発火しないが、B国産のテレビは発火する、となったら、だれもB国産のテレビを買わない。
しかしもし、B国産のテレビとA国産のテレビとが、おなじ方法での製造や、おなじメーカーの工場のちがいだけだったらどうなるか?
このことがしれたら、どちらも買わないという選択が、世界でおきる。
こんなことを防ぐため、「製造(安全)基準」が設定されている。
この基準は、各国政府の話し合いで決まることもあれば、メーカー各社が合意づくりをして決めることもある。
各国政府の話し合いには、国連という場も含まれる。
そこで、こうした「基準」が決まる落としどころはどこかといえば、やっぱり「社会の許容範囲」なのである。
ここでいう「社会」とは、国内ではなく「各国」の社会のことである。
「国際社会」ともいうし、ばあいによっては「人類社会」ともいう。
そうやって、現在の豊かな生活が確保されている。
とくに、口に入れるもの、からだの健康に影響するものには、国際基準が適用されて、これによって貿易がおこなわれている。
リカードがいった「貿易モデル」における、「比較優位」の原則は、「経済原則」のことだけど、いま、わたしたちが生きている世界では、「国際基準」という「社会の許容範囲」を前提にした、「比較優位」による貿易で物品が動いているのである。
その恩恵の典型が、輸入食材であり、国産農産物の輸出なのだ。
つまり、わたしたちがふつうにフランスやイタリアなどから輸入した、ミネラルウォーターやワインをなにげに飲めるのも、日本の米や野菜が東南アジアで人気なのも、ぜんぶが「国際基準」をクリアしているからである。
しかし、日本国民がしらないところで、日本の「不正」が問題視されるようになってきた。
それが、とくに顕著なのが「農薬」と「放射性廃棄物」による「汚染」の問題なのである。
農薬は、欧米基準の数百倍の緩さが「国内基準内」であったりする。
国内消費だけなら基準内だけど、輸出となると不可能になる。
そこをなんとかしろ、とごねている実態がある。
これに、「放射性廃棄物」が加わることになった。
もちろん、「国内基準」では問題ない。
こうした「迷走」が、どこへ向かっていくのか?
わが国の「社会の許容範囲」が曖昧になったことに原因がある。
民主主義ならありえないけど、民主主義ではないからこうなった。
メーデーが5月1日でなくて、4月29日(昭和の日)に開催されたのも、「社会の許容範囲」が曖昧になったからであろう。